「心のノート」だけでなく、人の心理のリテラシーも

心理学や精神分析学の知識というのは、アカデミズムや精神科医やカウンセラーなどだけのものではなく、一般人や中高生にとっても必要なんじゃないかと思う。(べつに、専門家にだってどーせメンタルな病いは治せないんだから……というわけでもないけど。) その理由として、本人が自分の心理状態や問題について知るということだけでなく、人から謂われのない嫌がらせや攻撃を受けたりした場合に、どうしてそういう事態が起きたのかを知るためというのがある。理不尽な攻撃は、いきなり加害者−被害者という関係を作り出す。リアルやネットでのストーキングや粘着嫌がらせ、あるいは学校などでいじめを受けた場合は、行為に対して対抗手段が取られなければならない。だがそれとは別に、加害者はどういう心理的背景があってそういう行為におよんだのか、ということを知るのも有益になるはずだ。理不尽な攻撃は被害者に「なぜ?」という気持ちを引き起こさせるからだ。
例えばいじめのケースでは、いじめられる者はもしかして自分にも原因があるのではないかと考えることがしばしばあるとされる。しかし、いじめは倒錯−享楽であるということ*1、そして実はいじめの中心人物こそ親子関係などの問題を抱えており、カウンセリングやメンタルな治療を必要とするのは彼(彼女)のほうだということがある。*2
 
数日前の余丁町散人さんのblogで、NHK特報首都圏「急増するインターネット中傷」……ホントに何とかしてほしいね というエントリーがあり、あるblogから「数ヶ月に渡ってほとんど毎日、一日数件の小生への中傷が書き込まれ続いている。」というのがあった。どこのblogかは書いてなかったけど、なんとなく分かった。散人さんは少し前まで Blog Ranking の社会・経済−政治のジャンルに登録していて、ダントツのトップを独走していたが、その某Blogも同じくそこに登録していたのだ。(今はもう散人さんはblogは登録を解除している。代わりに、どう見てもトホホなその某Blogがトップにアップ。10/12現在
散人さんは某Blogが粘着する理由として、日本の農業問題について(規制緩和や自由化という視点で)書いていることが気に入らないからだろうとしているけど、おそらくそれだけではない。あらゆる面で両者は対照的だ。リベラル保守ネットウヨ嫌い)vsネットウヨ、元商社マンvs農家、都会vs田舎、品性があるvs品がない、大人的vs幼児的、頭がいいvs頭がちょっと……、というふうに。人気ランキングで圧倒的な差をつけられ、しかもいくつもの対立軸でも負けている。それは当然劣等コンプレックスを生むけど、虚勢や優等コンプレックスで抑え込もうとしても無理。もともと不安定な心的回路に、さらに擾乱要素として出現した闖入者が入ってくることになる。そして耐えがたい苦痛を伴ないながらも、倒錯的に快感を求めその周囲をグルグル回ることになる。つまり享楽(jouissance)というわけだ。
しかし散人さんは Blog Ranking から降りてしまったので、置いてきぼりを食わされた某Blogは対象を喪失してしまったことになる。その空虚感を埋め合わせるに、代わりを探すのか、それともトラックバックを石つぶて代わりに送って粘着を続けるか分からないけど、いずれにしてもちょっとメンヘルに問題ありそう。
関連して、享楽の例をblogヲチスレでもハケーン。

713 :考える名無しさん
 17歳○○○が存在しようがしまいがどうでもいいよ。
 癇に障る文章と17歳の女の子萌えの齟齬を楽しんでただけ。

 (○○○は引用者による伏字)
癇に障るんなら読まなきゃいいのに、苦痛を憶えながらも周回軌道を回り続けてしまう。それと、女の子に粘着することだけを志向するのも倒錯ポイントが高い。もしそれが女子−女子の場合は、かなり嫉妬といじめ要素がはいっているけど、その場合も倒錯っぽい。
 
まあ、肥大した自己愛を抱えて身動きできなくなったり、倒錯が入ったままもう変わることのない大人は仕方ない。そうなる事情もあったのだろうけど、臼挽きのロバみたいに一生グルグル回ってろって感じ。
そういう大人が再生産されていかないためにも、子供の育ちや教育が大事ということになるんだろうな。例えばいろいろ話題になってる「心のノート」には、友だち同士の承認の推奨というのがあるみたいだけど、実際は承認ではなく否定による足の引っ張りも生じる。そういうときに自らを守るためにも、またネットで傷つかないためにも、人の心の心理についての知識などを習っていく必要もあるのではないだろうか。と思ったり。まあ、教師もいっそう生徒に心理を読まれるようになるかもしれないけど、それもまた良しで。
 
追記:そういや忘れてた、私(だけじゃないけど)もネットの掲示板で叩いてる相手――我がまま・好き勝手し放題の麻原彰晃レベルのパラノイア・キモヲタ・軍ヲタ・ネットウヨ――がいたりしてます。そいつが、冤罪の可能性のある裁判スレで被告の女性を叩いてるのが、私としては頭にきてます。今は気が向いたときに、たまに書き込んでる程度ですけど、ネットではもうけっこう長い付き合いになるかも。周りから叩かれても、そいつはあまり意に介さないで好き放題やってます。基本はバカですが、でも知恵はよく回って、けっこう悪どいところもあったり。得意技は何といっても嘘で、そのほか人格を解離させた自作自演などもすごく得意です。ローカルの掲示板、彼のせいで閉鎖になりました。そして今、まちBBS Annexに自分のスレを立てて、日記代わりにしてます。トンデモない奴です。また、最悪板にも奴のスレが立ってます。(こっちは本人ではなく、頭に来た人が立てた。)
まあ、こんな感じで、私は言うこととやってることが一致してませんが、何か? (w
 

*1:作田啓一『生の欲動』(みすず書房

*2:例えば斉藤学氏、又吉正治氏など。

人格障害は変わる?!

「電網山賊」さん(2004-10-02 の一番下)経由の
「EP:end-point」さん(「人格障害という輸入概念と文化心理学的解釈」)
のところにあったリンク、EurekAlert
以下はその意訳な私訳です。

ずっと変わらないと考えられていたが、人格障害は変わりうるということが明らかになった
人格(パーソナリティ)障害の症状は、生涯に渡って変わらず、持続し、そしてなかなか良くならないとされてきたが、ビンガムトン大学、ニューヨーク州立大学およびハーバード大学の報告書は、そうした障害となる精神的状態は固定したものではなく、目に見えるくらいの変化が可能であることを立証した。


長い間の精神医学と心理学の基本的な前提とされてきたひとつに、人格障害を抱える人たちというのは、それが彼らの一生涯を送る生き方であり、治療は症状変化の現実的希望にほとんど寄与できないというのがあった。実際、現代の精神医学での公式の診断命名法(米国精神医学会の診断基準 DSM-IV)は、それらの障害を「頑として変わらない(inflexible)」「長期間固定している(かたい)」と記述している。だが時間をかけて数多くの若年成人を追跡調査した、この長期におよぶ画期的な研究から得られた結論は、人格障害は変わらないとする前提条件へ疑問を差し挟むものであった。


ビンガムトン大学(ニューヨーク州立大学)のMark F. Lenzenweger教授の指導のもと行なわれた「人格障害の長期的研究」により、人格障害の症状を持った人たちに、時間の経過と共に兆候の顕著な低減が見られることが明らかにされた。「平均して、被験者は年に1.4の人格障害的特徴を減らしています」とLenzenweger教授は言う。


この発見が特に魅力的なのは、そうした変化が不安や抑うつあるいは他の精神疾患といった、従来の治療方法や他の種類の精神障害の存在に晒されることなく説明されているところにある。研究の被験者は四年に三回、人格障害の特徴が注意深く診断され、その際彼らに起きていた変化を見つけるのに、成長曲線解析として知られる複雑な統計手法が利用された。その研究計画の本質理念は、人格障害の特徴として観察されたどんな変化も、他の研究にとってやっかいになる人為的影響や欠陥によるものではないことを保証するのに役立った。


人格障害は、社会や職業における深刻な機能障害を反映した精神の状態であり、その障害の本質は、人間の人格に必要不可欠なものである。人格障害は、精神分裂症(統合失調症)や双極性の病い(躁うつ病)、あるいは重度のうつ病など他の精神障害と違って、発作性(episodic)の精神的混乱を示すことはない。人格障害は、社会ではわりあいに一般的で、およそ人口の10% がかかっており(そのこともまたLenzenweger教授の研究室ですでに発見されている)、開業している精神医療の専門家による治療を受けている人たちのなかでも大きな割合を占めている。「人格障害が10人に一人いるくらいに一般的になっているとは言っても、良いニュースもあります。私たちは今ではもう、その障害が時間とともに変わるということを知っているのです」と教授は述べる。最近出現した人格障害のための専門的治療法は、ここで挙げてきた新規の発見と結び付けられ、障害にかかっている人々の間に新たな希望を生み出している。


一般的な人格障害境界性人格障害で、自己破壊的で衝動的な振る舞いとともに、不安定な人間関係によって特徴づけられる。自己愛性人格障害は、偉ぶった自己尊大感と他者への共感の欠如で特徴づけられる。米国精神医学会(DSM-IV)による、それぞれ分類された10の人格障害タイプが存在している。


(微妙な問題なので、すぐ対照できるように原文も引用します。もし誤訳箇所などあればどうぞご指摘ください。)


Long thought inflexible, personality disorders show evidence of change
Personality disorder symptoms are supposed to be stable, enduring, and persistent across the lifespan, however researchers at Binghamton University, State University of New York, and Harvard report evidence that such disabling psychiatric conditions are flexible and appreciable change over time is possible.
One of the cardinal assumptions in psychiatry and psychology has long been that individuals who have personality disorders will be the way they are for their lifetime and that treatment offers little real hope of change. In fact, the official diagnostic nomenclature used in modern psychiatry (the DSM-IV of the American Psychiatric Association), describes these disorders as "inflexible" and "stable over time." Results from a landmark longitudinal study, which has followed a large number of young adults over time, now call into question the assumption that personality disorders never change.

The Longitudinal Study of Personality Disorders, under the direction of Professor Mark F. Lenzenweger at Binghamton University, State University of New York, has recently discovered that individuals who have personality disorder symptoms will show significant declines in their symptoms with the passage of time. "On average, our subjects showed a decline of 1.4 personality disorder features per year," noted Lenzenweger.

What is particularly fascinating about this finding is that the change is not explained by exposure to conventional treatments or the presence of another form of mental disorder, such as anxiety, depression, or other illnesses. The subjects in the study were examined carefully for personality disorder features at three time points over a four year period and a complex statistical procedure known as growth curve analysis helped to detect the changes that were happening in the subjects. The nature of the study design helped to assure that any observed change in the personality disorder features was not due to artifacts or shortcomings that plague other studies.

Personality disorders are conditions that reflect serious disturbances in social and occupational functioning and the nature of the disturbance is part and parcel of a person's personality. The personality disorders do not represent episodic disturbances, unlike other forms of mental illness such as schizophrenia, bipolar illness, or major depression. They are relatively common among the public, with approximately 10% of the population affected (a fact also discovered previoulsy in Lenzenweger's laboratory), and they make up a large proportion of those individuals seen for treatment by practicing mental health professionals. "Although the disorders are common, with 1 in 10 people affected, the good news is that we now know the disorders can change with time," states Lenzenweger. The recent emergence of specialized treatments for the personality disorders coupled with these new findings creates new hope for those affected with the conditions.

Common personality disorders are borderline personality disorder, which is characterized by unstable personal relations as well as self-destructive and impulsive behavior. Narcissistic personality disorder is characterized by grandiose self-importance and disregard for others. There are ten well-defined personality disorders according to the American Psychiatric Association.
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The report by Lenzenweger and his colleagues, Matthew Johnson (Binghamton University) and John B. Willett (Harvard), will appear in this month's Archives of General Psychiatry. The study was sponsored, in part, by the National Institute of Mental Health (NIMH).



上のダイジェストでは、人格障害は時間とともに変るということだけで、実際何がどう変わるのかについては説明されていない。
さて、米国での"personality"と日本での「人格」とではニュアンスが少し違うみたいで、「人格」はその人のアイデンティティにも関わるような重くて固定的な捉え方がされるけど、米国流の"personality" は流動的で変わりうるという、行動パターンに近い捉え方がなされているようです。そのせいか米国ではわりと軽く "personality disorder" の診断を下すみたいなので、米国の人格障害者が10人に1人という、日本よりずっと高い比率にもなって表れているのでしょう。それで日本でも人格を行動パターンとしてとらえ、「人格障害」ではなく「行動障害」とするほうがふさわしいと言う人や、カナの「パーソナリティ障害」という用語を使ってる人もいます。
それとやはり、上のEurekAlertでも指摘されていたけど、人格(パーソナリティ)障害などのメンタルな問題は個人だけに帰するものではなく、今の社会がそれを生み出す培地になってるという把握は大事でしょうね。欲望を刺激する高度消費社会、モラルや倫理の低下、共同体意識の崩壊と人とのつながりの断片化などによって、社会が大きく変わってきていて、みな大なり小なりその影響を受けてるわけだし。もちろん、それはまた文化の問題にもつながるし、ほんとうは親との関係や育った環境の問題も大きい。そして、やっぱりキーワードは「自己愛」だと思う。


心理学や精神分析的言説で何か分かったように説明してしまう風潮に対しては、いろいろと批判があがってるようだ。個人的には心理主義精神分析主義?などはちょっと問題だと思っているけど、心理学や精神分析は使えることも多いと思っている。でもオールマイティ・カードではないし、それで価値判断を安易に行なうというのは問題かもしれない。
上の「EP:end-point」さんのところでは、人格障害名のレッテル貼りへの批判が展開されている。 これは精神科医町沢静夫氏が訴えられた問題にも通じるような。*1
それとどこのblogだったか忘れたけど、精神分析が同性愛を倒錯として差別的に扱ってきたことに対して批判してた人がいた。たしかにそれは精神分析の範囲を逸脱してると思う。また、東浩紀氏が『動物化するポストモダン*2 などで精神分析的言説を使い、オタクを同性愛から切り離すことによって倒錯を同性愛に押し付けたとして憤慨していた。それも無理ないと思った。だって、倒錯はオタクのほうだから。オタクにはある「否認」が、たぶん同性愛者にはないはずだし。でもオタクが倒錯であるかないかなどというのは、どーでもいいことだと思う。
やっぱり話は、人は他者性――「あなたは何者で、どこから来て、どこへ行くのか」という疑問が湧いてくるような、でも表立ってそんな質問はしないけど――としてどう現われるかということじゃないかと思ったり。そういう意味では、メンヘル系だろうが何系だろうが、そういう属性情報はどーでもいいわけで、とはいっても、抑うつポジションにいて躁的防衛(支配感・征服感・軽蔑)に必死な人間や、妄想-分裂ポジションにいて妄想を吐き続ける人たちはちょっと困るけど。(それに加え、ネットにしろリアルにしろ、女の子に粘着する性向がある人間は、倒錯のポイントがどっさりプラスされる。) あ、心理学や精神分析は、そうゆー連中を攻撃するのに使えるけどね。 あと重い精神分裂病とかになると、世界の外のあっちの世界にいたとしても、なぜか他者性を感じない。*3 彼岸には橋がかからないのだろう。
(境界性)人格障害の特徴として、自己の中心に空虚さを抱えているというのがある。でも、どんな人間も中心は空(トーラス:リングのドーナツみたいなもの。)なのだ。だから例えば「自分探し」などというのは、空のところを必死になって掘るようなものになる。また、もし中心の空の部分を何かで埋めようとしても、そこはほんらい空の指定席なので、徒労に終わる。そこに金を注ぎ込んで御殿を建てようとしたら、一生金を稼ぐためだけの人生になる。


あ、いいかげんblogなんか書いてないで、お金、稼がなくちゃ。 いえ、御殿じゃなく、パンのためですけど。(またなんとなく尻切れトンボで終わる…)
 

*1:「診察せず「人格障害」 養育権審判 精神科医が意見書 母親、賠償提訴」 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041001-00000024-nnp-kyu

*2:書いた意図はなんとなく分かるつまらない本。頭のいい人がこんな本書いてたらダメボ。

*3:例えば、妄想世界にいる地下鉄サリン事件麻原彰晃和歌山毒カレー事件林真須美は、おそらく本気で自分は事件に関与してないと思ってるんでしょう。

顔と他者性(あるいは抑圧・否定・否認・投影)

ネット上の掲示板などで異様に粘着的・挑発的な攻撃性を露にしている人間がいるけど、そうした攻撃性の由来について考えてみる。
ネット上での攻撃性について、大澤真幸氏は次のように指摘する。

佐世保の事件では、サイバースペースの上でのコミュニケーションやチャットがひとつの引き金にもなっていた、と論じられた。少なくとも、次のことを留意すべきだ。たとえば、インターネットで、ハンドルネームを用いて――つまり「仮面」を被って――激しく攻撃的に振舞う人物にあったとしよう。このとき、われわれは、表面と内面との関係が通常のコミュニケーションとは逆転していることに気づく。ネットの仮想現実に直接に現前しているこの攻撃的な性格こそ、普通の生活で抑圧されているこの人物の内面の真実を直接に分節しているのだ。ここでは、もっとも表面的なことこそ内面的である。つまり、他者の謎、<私>が捉えようとしても決して十全に捉えられないはずの他者の他者たる根拠は、今や、スクリーンにそのまま露出してしまっているのである。

大澤真幸「われわれの社会は『更生』したのか」(『児童心理』2004.9)



    ハンドルよりも自己同一性に気を使う必要のない匿名の場合*1 は、さらに攻撃性な性格を剥き出しにできる。なによりも反復が可能なので、ストーキングや粘着性を持った嫌がらせ攻撃が可能になる。
攻撃的な人物が画面上に露出させてしまうもの、つまり内面に抱えながら抑圧しているものとは、多くの場合、彼我の差の観念が感情化・意識化された劣等感や、満たされない肥大化した自己愛に由来する自己尊大感や嫉妬心などのコンプレックス(複合体)のことでしょう。そして抑圧された内容は、それが意識に上ることができる唯一の手段である否定をとおして表象されたり、あるいは隠匿すべきコンプレックスを攻撃対象に投影することによって、その存在そのものを否認しようとする。そうした心理的事情によって「真の顔」が妄想されたり、たいしたことない・偉そうだといった嫉妬心が生まれることになるのだろう。自分より若いのに優れた人間の存在は、自らの惨めさの感情を刺激する。もちろんそうした劣等感などは当の本人の問題であって、他の者の与り知らないことなのに、それが他人に転嫁されてしまうことになるのだ。
ほんとうは人に出合ったときの評価は、誰でもそれほど違わないと思われる。見て分かる聡明さ/愚鈍さや人間性の有無などは、自己との優劣差も含めて、たぶん誰もがそれほど大きな誤りなく認識する。つまり、無意識のレベルでは、まだ否定はないということです*2。そして大きな誤差なく評価・認識しているからこそ、かつコンプレックスという負のバイアスが絶えずかかってるからこそ、内面で一瞬のうちにその評価がひっくり返されて(否定されて)しまうのだ。認知は一度バイアスのかかった回路を通ると、あとはその都度の価値判断を経なくとも、再帰的に反復されるようになる。知覚や知識によりでき上がったインデックスやカテゴリーは、同じような事例に遭遇したときの認識の省力化と価値判断の迅速さにつながるから、人間の認知につきものではある。だけどカテゴリー化は、劣等感を刺激されることの多い「未知の人との遭遇」での苦痛を低減できる効果ももたらす。逆に言えば、ラベリングやカテゴリー化に過度に熱心な人間というのは、何がしか抑圧や否認に必死だともいえる。とくにカテゴリー把握において、上位のレベルで把握すると個別対応をしなくて済む。つまり個性を持った誰それさんという事例としてのトークンではなく、たとえば日本人とか反日分子といったタイプ(あるいは類)で絡げてラベルを貼ってしまえばいいというわけだ。もっとも、それでも本人が抑圧・否認している内容は、依然としてPC画面に刻印され続けることになるのだろうけど。

その他の否定的態度の心理的背景には、過去において親や周囲から否定され続けてきたという体験とその強迫的反復や、自己愛憤怒といった感情によって引き起こされるものも考えられる。それから、一般に批判というものにも否定が含まれるけど、それが妥当なものかどうかは論説のなかにあるものなので、ケース・バイ・ケースになりそうだ。少なくとも、否定を生む心理的バイアスや何らかの(経済的)意図や欲望が背景にある批判などは、問題外でしょう。
「否定」には別の効果もある。肯定するよりも人の食いつきがいいのだ。よくメディアが、暴露*3 という手段とともにその手を使う。ときにはそれによって公共的な利益がもたらされることもあるけど、高揚感を導くために意図的に行なわれることもある。いわゆる煽りってやつです。また、メディアじたいが批判・否定の対象とされることもしばしばある。メディア批判もまた食いつきがよく、売り込みに利用しやすいというわけだ。そのあたりはライター系のblogも巧い。ライター系サイトはたまたまリンクを辿っていったときにしか見ないけど、否定要素(突っ込みネタ)の見つけ方が巧く、そしてまるで鬼の首を取ったかのように成果を誇示するのも見かける。そのへんの売り込み事情と心理的背景とが、どうも区分しがたいように見受けられるblogもある。
で、結論としては、否定や攻撃はその出所を見よ、ということになるだろうか。もっとも、おそらく多くの人がそこを見ていると思うのだけど。誰かから批判や否定をされた場合でも、それが出てきた根っ子のところを押さえると、何ら動じる必要性のないこともあるということです。それどころか、相手を憐れむべき人間と考えたほうがよいケースもあったりと。
 
ところで上に引用した大澤氏の文章は、神戸の小学生殺害事件の「酒鬼薔薇聖斗」少年A(と佐世保の女児小学生殺害事件)に言及したものだ。神戸の事件については、求心化と遠心化というキーワードを使って次のように説明がなされる。

私は、かねてより、任意の志向作用(心の働き)には、求心作用と遠心作用を伴っていると述べてきた。求心化作用とは、対象を、この身体、この<私>に対するものとして、この<私>に中心化させた相で現象させる作用である。これと同時に、志向作用の準拠となる中心を、他所へと、対象の側へと移転させる働きが作動しており、これを遠心化作用と呼ぶ。顔とは、求心化作用と遠心化作用とが、ともに極大化してたち現われるような対象であるといえる。<私>がそれを見ている(求心化)とき、それも<私>を見ている(遠心化)という直観を伴っているとき、その対象こそが「顔」だからである。人は遠心化作用を通じて、他者もまた見ているということを、他者に魂があることを、つまり他者がまさに他者であることを直観するのだ。(同)

「顔」というのはレヴィナスのそれがそうであったように、ほんらい実際のモノとしての顔のことではない。ここでは、求心作用と遠心作用の交差する場所に立ち現われる現象として想定されていると考えられる。

「他者(の顔)をまじまじと見るならば、それはたちまち不活性なものと感じられるであろう。つまり、他者の見る作用、他者の根拠となる<それ>は、私の<それ>を把握しようとする能動的な営みから逃れ、撤退していく(遠心化していく)という否定的な形式でのみ与えられるのだ。
すると、少年Aがどこで躓いていたかがわかる。彼にとっては、「生命」(に対する実感)の根拠となる「それ」――撤退することで機能する何か――が直接に現前し、到達しうるもののように感じられていたのではないか。

そして少年Aは、被害者の顔の背後にある真の顔を暴露しようとした。
続けて大澤氏は少年が落ちていった原因について、それを母親の育て方だけに求めることはできず、「この家族を取巻く社会の全体の方にあったに違いない」と指摘する。
そして上の最初の引用部の、ほんらい撤退するという形でしか捉えられないはずの他者の他者たる根拠性が、ネットで攻撃的に振舞う者の場合にはその内実がPC画面に露出されてしまっている、ということにつながっている。
撤退するどころか、満たされない承認欲求とルサンチマンや憤怒によるネガティブな感情を露出させて、ひたすら自己語りのモノローグ(つまり「オレを認めろよ」と言ってるようにしか聞こえない)を反復する。そこではもはや、他者性というカードは放棄されてしまっている。
 
バフチンにとって他者性とは、声とそれに対する応答のこととされる。他者性とは人と人とのあいだの架橋可能性のことであり、「他者に魂があるということ」を認め、それぞれの人格を尊厳ある独自のものとして扱うということなのだと思う。つまり、カテゴリーのタイプではなくトークンとして見るということであり、何よりそれぞれの声を聴くということでもある。
一方、類やタイプのレベルで思考しようとする人たちも、やはり人とのつながりを求める。ただし先に述べたとおり劣等コンプレックスを意識しているので、それを刺激される恐れのある「個別的なあるがままの価値判断」は避けられる。また、人それぞれの人格を尊重して見ることもあまりしない。(だから類やタイプ志向になる。) そうした事情により、彼らはカテゴリーのクラスのメンバーとして、他メンバーとつながろうとする。価値判断はクラスの属性に従うことになる。このやり方はネットの掲示板との相性が良く、たとえば2chでの右巻きな人たちの行動様式にも現われている。いってみれば2chの板やスレに集うメンバーシップ制だ。そこはメンバーだけの閉じた世界であり、同質性だけが求められるので他者性というのはなくてもよく、したがって排他性も顕著になる。そしてそれが極端に突出すると、自ら他者性を放棄して、他者の他者たる根拠性をスクリーンに露出させてしまうことにもなるのではないだろうか。
ダイアローグ型とメンバーシップ型とでも名づけられるこの二種類のつながり方の大きな違いは、やはり声と他者性の存在にあるといえそうだ。
 

*1:まあ、私もハンドルがINCOGNITO="匿名" だけど。

*2:フロイド「否定」(『フロイド自我論集』ちくま学芸文庫

*3:暴露はほんらい公共の利益になることに対してなされるべきもので、たとえば、何も後ろめたいものがない私人のプライバシーを暴くというというのは、モラルとしてやってはいけないことだ。

チャールズ・テイラーとリリカの仮綴じ〆さん

半月ほど前に読んでいたジームズ・ワーチ『心の声―媒介された行為への社会文化的アプローチ 』(福村出版)のなかで、意味を他者との関係のなかで生起するものとするバフチンの意味理論の特徴のひとつとして、「遊離した自己イメージ」とそれに付随する「アトミズム」の否定というのが挙げられていた。*1 それは個人を意味生成の起点とする西欧流の意味理論への批判として出されたもので、そこでの「遊離した自己イメージ」というのはバフチンの言葉ではなく、ワーチはその見解を主にチャールズ・テイラーの著作を参考にしているとのことだった。それを読んで、そういえばたしかリリカさんがテイラーの本を紹介していたと思い、blogを確認してみると、『<ほんもの>という倫理』について、記憶では、付箋をつけるところがたくさんあるといった表現で高く評価していた。また書評へのリンクもあり、それでさらに興味を惹かれたので、買って読んでみることにした。
そしてやっと読了。確かにとてもおもしろい本で、リベラルとかコミュニタリアンとかいった政治的立ち位置の話ではなく、文化・社会・政治・哲学・歴史などを射程に入れた近代論(現代論)がベースになっている。かって人々と世界を確実につなぎとめていたほんものという理想は、脱魔術化された近代においてはすでに失われてしまった。この本はさながら、あらたな[ほんものという理想]を視野に入れながらこれからの社会を構築していく上で重要になってくる、さまざまなポイントを標したロードマップのようだ。そこには、道順や建物の布置や要注意箇所(アトミズムや道具主義、文化や技術にたいする極端に評価の分かれた対立などの「スベリ坂」)などが書き込まれている。
ただ、文章はワンセンテンスがどれも長いので、英語をスラスラ読める人なら原書の方が理解しやすいだろうと思った。構造と階層がはっきりしている英語文と違い、日本語の長文を読むには容量の大きめな短期記憶バッファが必要になる。それでもしかしてリリカさんが読んでいたのは原書かな? などと思っていたのだけど……、blogがなくなってしまい残念。
 
それにしてもリリカさんのことを、ほんとうは17歳女子じゃなく別人だろうとか、キャラをつくってるとか、偉そうだとか、小姑みたいにうるさいこと言ってる人がいたのにはあきれた。なかには嫉妬や妄想を全開にして粘着する人間もいたみたいだし。そうした情報価値ゼロの指向性だけ強いノイズは、フィルターで遮断してしまうのがいいのだけど、それでもうんざりさせられるようなら、やはり遠く離れてしまった方が賢いのかもと思った。雑音がうるさいと仕事や勉強にならないし。*2 (この辺については、次の項目「顔と他者性」で書いてみる。)
「17歳」にまつわる勘違いは、たぶん日米の教育環境の違いによるところが大きい。欧米の高校では哲学の授業があり、日本の高校でのおざなりな「倫理」などと違って、かなり時間数をとってやるので、向こうの高校生の哲学のレベルは日本の大学3年くらいに相当するという。それに日本の「倫理」は「哲学」ではなく「公民」のなかの科目だし、要はうまく暗記すればいいだけで、生徒は考える必要もない。だけど本格的に哲学や思想を学ぶとなると、自分と周囲の社会や世界と向き合いながら論理的に思考していくことが要請される。だから欧米では、論理思考(クリティカル・シンキング)やライティングやディベートといった、思考を論理的に言語化していく手法も習得するようになっている。

    それと日本の中高生の場合は、自分で何かを勉強したいと思っても、その前に受験勉強やクラス内外での人間関係でエネルギーを消耗してしまうという事情もある。とくに女の子の場合は、クラス内でのグループ作りとその維持には神経を使う。
そうしたことでリリカさんのケースも、もともとの資質の高さというのも加わって、日本の大学の4年生から大学院修士くらいのレベルにあるということでしょう。
なお、リリカさんとは対話をしたことがないけど、とても聡明で筋が良さそうというのと同時に、(表現が月並みだけど)非常に感性が豊かという印象だった。チャールズ・テイラーだけでなく、いろいろ勉強になりました。
 
チャールズ・テイラー『<ほんもの>という倫理―近代とその不安』の書評リンク
朝日新聞(鷲田清一)
読売新聞(池内恵)
KenYonehara Offical Homepage(米原謙)

 

*1:1.「遊離した自己イメージ」と、それに付随する「アトミズム」の否定。 2. テクスト機能としての「対話機能」と「単声機能」の双方の認定。 3. テクストに備わる権威性の認定。 4. 意味理論の出発点としての字義的意味の否定。

*2:以前、別の日記サイトで書いていた知り合いの女の子が、高校生だったころにやはりblogヲチスレでいろいろと書き込みをされて、非常に神経がナーバスになっていたことがある。それほどひどいことは書き込まれていなかったけど、けっきょく彼女は日記を閉じ、別の新しい日記を再スタートさせた。

仲良しお友だち対談 <内田樹 × 鈴木昌>

(i feel 2004 夏号 いまもういちどやさしく学ぶ構造主義
題目:オリジナリティや自分らしさへの誘惑を疑うことからはじめよう
 
構造主義に関する部分はそれなりに、として……
おもしろかったところ。

内田 ……私は最近になってバルトの言語論というのは、昔理解したつもりでいたよりも、実はずいぶんと奥深いんじゃないかなと思い始めています。言語のもつ始原的な力、人間を揺り動かすような根源的な力をバルトは直感していたんじゃないかな。『表徴の帝国』で彼は非常に優れた俳句論を展開してますよね。でも、ぜんぜん日本語のできないバルトがどうして俳句のような韻律のある定型詩の美とインパクトをあれほどみごとに体感できたのか。私はそれが不思議なんです。 …… 
…… ベルクソンも同じようなことを書いています。小説を読んでいると「コア」のようなものに触れる瞬間がある。ただ一つの形容詞やただ一つの動詞が「キー」になって、いきなりその小説世界のど真ん中に踏み込んでしまう。その小説の持つ匂いや温度や体感や情感が身体の中に吸い込まれてゆく、そういう経験。これは意味のレベルで起きていることではないし、もちろん音韻やリズムのレベルでもない。だとすればバルトの「エクリチュール」という第三の水準で生起している出来事だと考えるほかない。「エクリチュール」という概念に、ここまでの奥行きがあると私は思ったことがなかったんですけれど、バルトはそこまで見通していたような気がします。
鈴木 きっとそれはクリステヴァが提唱している「深層のテキスト」ですね。彼女の仕事は非常に難解なのですが、内田さんが言われた言語の始原的な部分へ降りていくわけです。私はその深くドロドロした場所に、なぜいろいろな作家が手あかのついた言葉でいろいろな小説を書いているのかという、いわば創作の永遠の謎への答えが潜んでいるのではと興味深く思っています。

そこのあたりになると実証的にも思弁的にも、構造を取り出して記述・説明することが難しくなりそう。言語化しにくいものを言語によって説明するという困難さが伴うので、そのせいか、このあと内田氏は「構造主義はあれでけっこうオカルトなんですよ。」と言葉を引き継ぐ。
俳句や短歌は詠人の感じた世界の表現であると同時に、外に開かれてもいる。それは主語(主体)が消されることによって自我による汚染や私有から自由になった、無我・無為・無垢な、それでいて価値のある贈与・交換物となるからではないだろうか。
 
■ 蛇足
ふざけてつまらなかったので、削除しました。

「家」とハイアラーキー組織(官僚型組織)

防衛と攻撃
どんな動物でも何かを防衛しようとするときは、かなり強力な攻撃性を発揮する。まず自分たちの巣や子の防衛であり、その次に獲得した獲物の防衛だ。蜂やカラスは巣に人間などが近づくと執拗に攻撃してくるし、熊などもとくに子連れのときは恐ろしいと言われている。
スズメ蜂は樹液の出るところなど、自分たちの餌場にしているところでも攻撃性が高くなる。*1 また、むかし北海道の山で登山パーティのメンバーが何人も熊の犠牲になるという事件があったが、それは熊に荷物を取られたのを再び取り返したので、熊が怒ったからだとされている。いったん自分のものとした獲物にたいする執着は、すざましいものがある。そしてそれは、利権や領土を巡る人間世界での出来事についてもいえる。
 
増殖と分化
蜜蜂などが巣の中で個体数が多くなり、その一部が女王蜂と一緒に新天地を求めて巣を飛び出すことを分封という。そのとき分封群は新しい巣の場所が決まるまで集団で木に止まいぇいたりするが、それを捕まえて飼おうとする人がホウキなどでゴッソリ払い落としても、何も抵抗しないくらいおとなしい。つまり、守るべき巣や幼虫がない状態では、まだファミリーでも機能集団でもないので、防衛モードにスイッチが入らないのだと考えられる。*2
 
「家」とハイアラーキーの相似
前回エントリーの脚注のところで、ハイアラーキー組織(官僚型組織)の原型は、同じくツリーを形成する「家」(ファミリー)にあると思うと書いた。基本構造としては「家」だから、強い組織防衛本能が働くし、またメンバーを増やして組織を大きくしようとする。増分を組織の膨張で吸収できない場合は、一部を分化させる。つまり増殖と分化*3を繰り返すということ。
 
家族愛と自己愛の相似
家族をバラバラにしても、そこから社会的な文脈である「個」は出てこない。家族愛というのは、けっきょく自己愛やナルシシズムに類似したものなのではないだろうか。
 

*1:スズメ蜂は出会い頭に衝突したとき反射的に針で刺す習性があるが、そうしたケース以外ではあまり怖くないとされる。部屋に入り込んできたスズメ蜂は、手でつかもうとしない限り向こうから刺して来ることはない。殺虫剤ですぐあぽ〜んできる。

*2:社会的動物とされる蜂や蟻は、巣と女王と働き蜂や働き蟻とが全体としてひとつのシステムをつくっている。だから子供のころやったように、ビンに働き蟻だけ入れて飼おうとしても、例えばトカゲの尻尾だけ飼おうとするのと同じで、けっきょく皆弱ったり死んだりしてしまう。そのことを知ったのは大人になってからだった。また、蟻を使った現代アートというのがあって、いくつかの国に模したエリアを通路で結び、そこを蟻が行き来するという、おもしろいのかつまらないのかよく分からないもので、実際にそれを見た人は「所々で蟻が死んでた」と言ってた。

*3:分化の例として、分家、分封、官庁の外郭団体作り、ヤクザやマフィアの下部組織作りなどがあげられる。

リベラリズム・コミュニタリアニズム・アナーキズム(1)

ネオリベラリズムリバタリアニズムという(市場)原理主義を除いた、リベラリズムコミュニタリアニズム、そしてアナーキズムの三つのなかで、自分の立ち位置というか、ウロチョロする場所はどこなのかくらいは知っておきたいと前から思っていた。(ただしここでアナーキズム無政府主義ではなく、原義の反ハイアラーキーという意味と相互扶助を想定してる。またコミュニタリアニズムについても、国家主義復古主義や利権集団主義といった左右イデオロギー共同体主義も除外して考えています。)
で、疑問に思っていたのは、そもそもそれらは3つは決して排他的なものじゃないんちゃう? ということです。
その辺に関して参考になるサイトがあったので、一部を抜粋してみる。
大阪大学 米原謙オフィシャルサイト」
書評:菊池理夫『現代のコミュニタリアニズムと「第三の道」』(風行社)

読了していちばん感じたのは、マッキンタイアなどの著書の印象から受けたイメージとは異なり、コミュニタリアンの理論は意外におとなしく常識的だということである。どうやらリバタリアンコミュニタリアンは相互に中央に収斂しつつあり、どの理論家も「リベラル・コミュニタリアン」か「コミュニタリアン・リベラル」になりつつあるらしい。もしそうなら、もはや「コミュニタリアン」という規定自体が迫力を失い、いずれ近いうちにこの語は死語になってしまうのではないだろうか。

ちなみに、上で挙げられていたテイラーやマッキンタイアというのは、もちろん旧守派のコミュニタリアンとは違います。いまチャールズ・テイラーを読んでいるところだけど、個人的にはリベラルでアナーキーでコミュニタリアなあたりがいいかなとか思ったり。何じゃそれ?ですが、まあ、自己の立場というより、単なる個人的趣味や好みの話ですので。

ちなみに、リバタリアニズムリベラリズムコミュニタリアニズムについては、
 ・乗り物の比喩と様相論理で説明している chez sugi さん
 乗り物と様相論理
 ・MIYADAI.com blog(宮台真司氏)
 リバタリアニズム・リベラリズム・コミュニタリアニズムの円環
などが参考になります。
 
それからべつの疑問として、とくに日本の場合、リベラリズムや「公」の前提になるであろう「個」というものが(良かれ悪しかれ)はっきりとは確立されていないということが問題としてあると思っている。日本では「個」の代わりに機能してきたのが「家」であり、それがすべての基本単位になっている(いた)と思う。したがって「家」というファクターについても考える必要があるのではないだろうか。
 
例えば(既に言われているかもしれないし、勘違いかもしれないけど)、日本の農村は決して共同体主義とはいえないように思える。農家というのは「家」が事業主の自営業者で、それぞれが所有する田畑の大きさや地の利が異なるという、スタートラインでの不平等さも抱えている。そして個々の家単位では対応できないようなこと――労働力不足や災害への援助など――にたいしては、共同体として対応することになっているけど、それ以外は自己責任で事業経営をやってくれ、ということになるのではないだろうか。そこでは、援助に限らずお祭なども含め、必要とされるときの共同体への参加が公的なものとなる。いってみれば、助けたり助けられたり参加を要請されたりする「縁」の限界が、世界(公)の限界でもあるともいえる。
ここで、以前に書いたのをちょっと引用してみる。(d:id:INCOGNITO:20040530#p1

共同体社会での例を見てみると、高知の集落で高齢の独居老人のために自分のところの料理をひと皿分余計に作って提供する、「皿が回る」「皿が走る」と呼ばれる慣わしがあるようだ。

こうした地域では、家の家格という意識が少ないことが知られている。「山持ちだろうが事業主だろうとひとは死に、病気になり、災害だって受ける、しかるゆえにみんな平等だ」という。(「日本の村の相互扶助」富田祥之亮)

こうしてみると日本の農村って、基本は「家」主義なのだろうけど、けっこうリベラリズムコミュニタリアニズムアナーキズムな側面もあるように思えるのだ。
 
そしてこうした関係は、都市部でも変わりがあるわけではない。それどころか、都市生活者にとっては「家」がさらに重要な核になっている。指摘は多々なされているけど、つまり都市では会社(職場)も大きな「家」であるということ。そして都市でも農村と同様に「家」は「公」に直結しないが、それは「家」という組織の性質が「我が家さえよければいい」というエゴのうちに閉じようとするものであるからだと思う。

この続きは後日に回して、「家」について少し書いておきたいと思う。