スポ根主義の消滅

中日のリーグ優勝はスポ根主義の消滅につながる。落合監督のやってきたことは、次のようなことに要約できるのではないだろうか。つまり、プロとして選手のモチベーションをアップさせることを優先させ、仕事の実質を求め、「やってる振り」はさせない。各選手をフェアに扱い、同時に目配りや気配りは欠かさない、といったことだ。
じつは最初にそういうのをやったのは、1995年にそれまで9年間Bクラスだった千葉ロッテ・マリーンズを2位まで引き上げたバレンタイン監督ではないだろうか。当時のロッテの広岡ゼネラルマネジャー v.s. バレンタイン監督の対立というのは、<管理野球精神主義・質より量の練習> v.s. <チーム内競争原理の導入・質の高い練習と休養を重視したコンディショニングつくり、選手の自主性とモチベーションの向上>という野球コンセプトの根本からの対立でもあった。
言い換えるならバレンタイン監督(と落合監督も)の方針は、「仕事してます」という振りは、自らもしないし、選手にもさせないということだと思う。概して日本のスポーツ指導者は、選手にうるさく何か言っていれば指導したことになるとでも思ってるふしがあり、選手もそれに合わせて「練習を一生懸命やってまーす」という振り――それは長いあいだ世間的に期待されていた役割でもあった――をしていれば評価されるという面があったのではないだろうか。仕事してますという振りしていればいいというのは、まるで役人みたいなものだ。役人のチームが優勝できるわけがない。
今シーズン、千葉ロッテがいい成績を上げられなかったのは残念だけど、パリーグの各チームは95年とバレンタイン解任以降のロッテの凋落を見て、きっとバレンタイン流を学習してたのだと思う。ロッテにとっては、他のチームがそうやって競争力をつけてしまっていたという不運さがあったのかもしれない。
落合やバレンタインといった監督の対極にあるのが、強面(こわもて)の監督だ。そういう監督は選手にとってはコワイから言うことを聞くので、短期的には(1年とか)いいかもしれないけど、長続きはしない。選手も、必死の形相で「練習を一生懸命やってまーす」という振りを見せればいいというところに戻ってしまう。またそういう監督は自分のプライドが何よりもの関心事だったりするので、おべんちゃらに弱く、選手をえこひいきしがちになる。
いい監督になるかそうでないかは、野球解説を聞いてたらだいたい分かる。頭が堅かったり悪かったりするのはもちろん話にならないけど、言うことがエラそうで中味がちっとも面白くない解説者や、選手のことをボロくそに言う傾向のある解説者もダメ。聞いていてイヤな感じのする解説者は概ねダメです。(落合は解説者としても、選手の心理を読んだりして面白かった。)
事情はサッカーでも同じだ。フランス・ワールドカップのときの日本チームの岡田監督は、一生懸命な姿を見せる選手を代表として採用し、必死になって型にはまったフォーメーションを見せようとしていた。そして一生懸命な振りは見せない(どころか監督にフンという感じだったのかな?)型破りなカズや北澤を除外し、けっきょく惨敗した。次期の日本代表の監督はホントに岡田でいいのかな。(ジーコなんかも、トルシエとは違って選手はプロなんだからという前提から始めてるところからすると、落合−バレンタイン・タイプの監督なのだと思う。それにしても外野がうるさい。)
スポ根に代表される今までの日本のスポーツ指導は、「指導」に名を借りた支配−服従関係をつくることを目的としてるようなところがあって、それによって才能がつぶされてきたということも多かったのではないだろうか。スポ根が要らないのは少年スポーツでも同じだ。必死になるのは、ボールが来たときにバットで打ち返したりグローブで捕球するときだけでいい。
ところでイチローは、小さいときから年に360日厳しい練習をしたからイチローになれたのかな? 右投げの左打ちって、(こんなこと言ったら石を投げられそうだけど)私の場合も右打ちするよりもずっとバットによく当たるし、良く飛ぶのだ。(まあ、バッティング・センターでの話ですが。) イチローのケースはスポ根というより、無類の野球センスと野球好きの成果じゃないだろうか。べつに三歳から野球を始めなくてもイチローになれたと思う。
人間は、子供でもそうだけど、何か(根性とか教育など)を注入される生き物じゃない。ゴム風船みたいに、空気を注入したら膨らみましたというわけにはいかない。喩えでいうなら、月並みだけど、やはり花などの植物になるだろうか。それぞれに必要な養分や日射量や土壌のPHなどが違う。最もふさわしい環境条件を提供して、花が開くのを助けるということが大事なのではないだろうか。 …などと、最後はお行儀良くまとめてみました。