「過保護な父親」(「PSIKO」の和田秀樹氏評論より)

精神分析医の和田秀樹氏の「PSIKO」(2003.10)に掲載された「父親−息子関係 過保護な父親という日本の病理」から。

日本では「過保護な母親」がよく話題になります。しかし日本の病理は、むしろ「過保護な父親」によってもたらされるのではないでしょうか。

フロイドを始めとして精神分析の理論では多くが母親に愛されることを重要視しているように、親−息子関係で問題になるのは「過保護な母親」というより「過保護な父親」のほうにあるのではないかという。「父親バカのほうがむしろ息子をスポイルしているのではないでしょうか」ということである。
父親の息子への過保護の例として、自分の地盤を譲りたい政治家(しばしば慶応の幼稚舎に入れて大学までをエスカレーターで進ませる)、大金を積んででも病院を継がせたい医者、会社を継がせたい企業経営者などが挙げられ、人物としては石原慎太郎ダイエー中内功、そごうの水島広雄などが取り上げられる。
氏が父親の過保護を問題視するのは、エディプス状況を作らないこと、つまり父親に打ち勝って強い人間になることが阻害されるからだ。そしてそれはまた、進歩的でもの分かりのいい父親についても言えるとのことである。立ちはだかり越えるべき壁となりえないからだ。

父性論者の人たちは、ある意味「父性」の意味を取り違えているのではないでしょうか。父性を説くのであれば、父親とはむしろ幻想化機能、理想化機能なのであって、現実面でレールを敷いて「こういうふうになりなさい」という存在ではないと思うのです。

これは重要だと思う。エディプス期における「父」や「父の名(掟)」というのも、あくまで象徴としての「父」のことだ。そしてさらに息子には、いずれ「理想化された父」を越えなければならないという仕事も残っているのだ。(どちらの「父」も、実際に家にいる実体を持った父親である必要はない。) とくに父親のレール敷きや強権的対応は、後者に悪影響を及ぼす。

そうした家庭での父親は、息子にとって反抗し乗り越える対象とはなりえないか、最初から反抗そのものが断念される。それによって、けっきょくは父親を越えられなかったという心理的な屈折を残し、強がって見せるだけで真の強さを持った人間にはならないということのようです。それが、「父親が強い家庭では、父親が息子に自分を超えさせないメカニズムに乗ってしまう」ということなのだ。

「強い男の子」になれないと、反動形成で「自分は強いんだ」と見せるために、超タカ派になることもあるのです。アメリカのネオコンの顔ぶれを見てもみんなぼんぼんで、それに反対しているパウエル国務長官は移民の子で叩き上げの軍人です。本当に戦争をやっている人間は、教条的なタカ派にはなれないといわれます。「裏付けのないタカ派」というのは、心理的な反動形成が影響しているのかもしれません。自分の力に自信があれば、あそこまでタカ派になる必要はないのです。逆にいえば、金正日サダム・フセインが虚勢を張るのも、同じメカニズムだと思います。

その他に一時ブームとなった安倍晋三の名前も挙げられていたけど、年金不払いの自己責任は?の石破、中川といった二世議員タカ派であるというのも、同様の事情からなのだろう。
そうした幼稚舎〜慶応や地位・財産の継承など、楽なレールを敷く裕福な過保護父親とは対照的な、息子に厳しい道を歩ませる父親もいます。たいてい貧乏人のせいか有名人はなかなか見つからないけど、マンガ「巨人の星」の星飛馬の父親などがその代表である。家庭には姉がいたけど母親は不在で、父親は息子をスパルタ教育で厳しくシゴく。そして星飛馬は反抗することなく従順に従い、ジャイアンツの一流投手にはなれたけれど、人生何が楽しいのか分からない人間味の欠けた父親のロボット・野球ロボットにもなった、というわけです。(いくらかは父親に反抗はしたんでしたっけ? まあ、バカバカしいマンガなのでどっちでもいいや。)

ではどんな父親がいいのかということで挙げられているのが、「普段はお母さんがガミガミ言っていても、ほんとうに叱ってもらうときにはお父さんにお願いしますというと子供は震え上がったのです。」という機能としての「父親」だという。(機能ということは、実際の父親でなくてもいいということです。)
また父親の存在が大きい家庭とは反対に、母親(妻)が父親(夫)にダメ烙印を押して母子密着になったのが、マザコンとなるだよう。
ただ、マザコンといわれる北野武や武田鉄也などの例をひいて、「母親に愛され叱咤激励されてきている人たちは、頑張って成功を収める傾向があるのかもしれません。」とのことです。「冬彦さん」タイプの極端なマザコンは、最初の段階から「父」が効いてないのだと思う。
いずれにしても、過保護な父親−息子関係は問題が多いということのようです。