メタとかベタとか

確かにベタにたいして向けられるシニシズムなんて気取りやポーズとしてメタを装ってるだけの視点でしかないだろうし、もし梯子を登るなり地中を掘り進むなりしてほんとうにメタなレベルに到達できたとしたら、そこは(比喩的な意味でもそうでなくとも)神や仏に近い領域なので、下を見おろすときには憐れみや慈悲といった眼差しが随伴するはずだと思う、というのは例えばカフカの『審判』のヨーゼフ・Kが取り込まれたような超越的なものについて、それを物語ったり分析解明することなどをとおして何か見えてきたとき、人はメタレベルにたっていることになるのかもしれないけど、そのときKは冷笑というより憐れみの対象となるはずだからで、そうしたことだと勝手に解釈するなら「寛容」という言葉が使われているのはとても理解できる。
「寛容」というのも言い換えれば、自分にとって都合の良し悪しに関係なく他人を「他者」として認知することだろうから、それは少なくとも冷笑することとは縁遠いでしょうし。
(hazuma 2004-04-23のこと)

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コミュニケーションやコミュニティがビジネスや主義主張などの目的に沿った言説空間を作るためのツールとして利用され、そうした言説共同体では「外部」からの文脈を外した発言や「キチガイ」というピーな言葉を連発するような品のない者の発言などは、いくら本人が情報提供のつもりでも商売の邪魔・迷惑にしかならないという、まあ何を今さらなことをつい最近思ったわけですが、何か?(自分に冷笑)
(どこかの学者先生のところのこと)