21日の補足

カルチュラル・スタディーズやポスト・コロニアリズムに関しては、それらの新しい視点の導入によってもたらされた成果は大きいと思うけど、自分たちのテリトリー確保を目的としたり、カルスタ・ポスコロに必然的に付随する基準にしたがって作品の価値判断をしたりするのはどうかと思う、ということです。

例えば文芸評論家の川村湊氏はあるアイヌ作家の小説の評論のなかで、日本でのカルスタやポスコロの恰好な研究テーマとして、アイヌ文学があることを指摘する。
http://www.hanmoto.com/bd/ISBN4-88323-081-3.html
そしてそこで川村氏はこの小説の価値を、

鳩沢佐美夫はその散文作品によって日本列島の中のマイノリティーとしての「アイヌ民族」を本来の意味で“立ち上げて”みせたのである。

として、自らのアイヌとしてのアイデンティティに迫ったところに見いだす。そして今までアイヌをテーマとして書かれた石森延男武田泰淳などの非アイヌの作品や、アイヌの作家でも小説以外の形式を選んだ者とを対比させる。そこではアイヌ歌人違星北斗などは、「ともすれば短歌という抒情の中にその『民族精神』を昇華させるか、謳いあげてしまった。」というふうに、一段低い位置に置かれてしまうのだ。
しかし短歌が抒情というのは短絡すぎると思うし、違星北斗は小説こそ書かなかったけれど、散文は残している。そして散文と短歌――そして和人の言葉と形式で書くという皮肉な運命と――のなかで、やはりアイヌとして差別される苦悩や、アイヌであることの誇りを表現しているのだ。そしてなにより文学としての価値も、別にそこだけにあるわけではないのだ。

つまり川村氏の主張は、アイヌ民族アイデンティティの苦悩・小説という正統な属性を持つ本物と、それらに欠ける者の作品という二項が立てられ、そして一方を(前者を)称揚していることになるのではないだろうか。*1 価値の転倒でも、こういうのはちょっとまずいと思うわけです。

*1:それをもっと極端にして政治的に利用しているのが、例えば「2種の人類」というタイトルがつけられた本多勝一による違星北斗の遺稿集『コタン』の書評だ。( http://www.sofukan.co.jp/books/76.html ) そこでは、差別された民族の心を「感じる種族」と、それを「感じぬ種族」という作為的な二項対立が唐突に持ち出され、対立する相手を非難する手段として使われている。(こういうことをやると、やっぱり嫌われると思うな。)

文学作品として全く語っていない本多勝一の書評なんかとはべつに、違星北斗の遺稿集『コタン』はとてもいいです。