世界の限界は計算可能な限界

    ――思考のなか、思考のまわり、思考のしたにあって、思考されていないもの、しかも還元不能な越えがたい外部性により、思考にとってなお無縁でないもの…  (M・フーコー
    ――知は広がってゆくにつれて非-知のなかに消えてゆく (J・バタイユ
昔、数学で事象をすべて説明しようと考えて、しばらく数学(数値解析)の勉強ばかりやってたことがある。いろんな事情で断念したけど、そのとき世界とは、数値計算可能な範囲のことを意味していた。もちろん日常世界から始まって芸術や文学や人文科学の世界など、世界がほかにもあることは知ってはいたけれど、今ほど関心はなかった。
世界を数理や言語や理論などで表現し尽くしたいという過度な欲望は、神経症なのかもしれない。でももし言い尽くすことができたと思ってるとしたら、神経症をもっと越えて逝っちゃってると思う。というのも、それぞれの分野が「世界」の一部でしかないということと、さらに個々には、数学モデルを立てられる限界、言語の限界、そして理論の限界という、二重の限界が存在しているからだ。だから社会科学の理論などで「世界」が分かったように大そうなことを言ってるひとを見たりすると、なんだかねぇ……と思ってしまう。それこそ欲望にたいする「父」が効いてないというか、「父」になりたいというか。