詐欺師・気違い

世の中には詐欺師の類の人間は多い。仕事でも出会うことがあるけど、詐欺師みたいなものと、本物の詐欺師とはちがう。根こそぎテイクする詐欺師とちがって、詐欺師みたいなものは、いちおうギブ・アンド・テイクを知っている。できればテイクをたくさん欲しいというだけで、そのへんは皆同じなので調整は効く。概して押し出しは強いけど、引くところも知ってる。仕事ができて両者の利益になれば問題はないのです。
一方本物の詐欺師には、欲にずっぽり入って(相手の設定した物語空間に入って)しまうと、騙されることが多い。ビジネスなんかでも、儲けなければならないという圧力が絶えずかかっているため、欲望とリスクのあいだの冷静なバランス感覚が崩れやすいのだ。詐欺師はどこか胡散臭さを発散させているので、カンのいい人は臭いでわかったりする。けれど顔が見える個人ではなく、詐欺師が会社の看板の陰に隠れていると、見えないこともある。
たまに詐欺師のなかでも、どんなに頭がいい人間でも見抜けない類のがいる。それが「気違い」だ。「気違い」とはいっても頭がいいので、筋道の通った能書きをちゃんと喋る。パラノイアは嘘をつくのを屁とも思わない。というか、嘘と事実が脳内で簡単に入れ替わる。そして人を騙すことに後ろめたさをもっていないので、目が泳ぐこともないし、目玉をキョロキョロさせることもない。自信に満ち溢れてるので、どんな優秀な人でもたいてい騙されてしまう。
足裏診断の「法の華三法行」の福永法源@幸せですかぁ〜 は、顔を見たらすぐわかる本物の詐欺師だ。でもオウム真理教麻原彰晃は本物の「気違い」詐欺師なので、近づいたらたいていの人は騙される。宗教的な関心や研究対象といった動機がない人は、そもそも近づかないから騙されない。テレビなどを通してなんとなく胡散臭さを感じるのは、話の輪には入らず、外にいて見てるからなのだ。知識だけで対面するというのは、やはりあぶないのではないかという気がする。まだオウム真理教が出始めの頃、雑誌に麻原のコメントや対談が載っていたことがあったけど、ふつうに仏教的なことを言ってるという感想だった。パラノイアと知識は、相性は悪くないのだろう。
オウム真理教が、政権を転覆するために軍事化したり政府組織の真似事をしたり、ついにはサリンを撒いて人を殺したりしたというのは、たぶんオウムの宗教教義からではなく、麻原の脳内からしか出てこないのではないかと思う。もちろん歴史や出来事を個人に還元するというのが問題あることは承知だけど、それ以外に説明がつかないのだ。「敵」(日本の政府や敵対する弁護士など)が設定されて、それとの攻防戦モードに入り込めるというのも、そしてそこで王様になれるという幼児的万能感もすべてパラノイアの発想だから、ロジカルに説明することなどできないということなのだ。(もっともそれを言うと精神鑑定という話にもなってしまうので、あえて誰も口にしないのかもしれない。) なので、教義じたいに倫理が問題になる点は見いだせないので、宗教学者オウム真理教にすっかり利用されたというのも、ちょっと無理はないかなという気もする。もし「法の華」なんかに騙されたのならお粗末過ぎるけど。
パラノイアっ気は、多少は誰にでも見られることだと思う。自分が他人とちがって卓れていると思う(選民意識・自己愛)なんてのもそうだ。でもふつうにあるパラノイアっ気と本物のパラノイアでは、恥の感覚がちがうパラノイアはモラルの場所を知らないのだ。パラノイアは、どうハッタリをかませて売り込んだり、どう人に分かりやすく訴えたら有効かということを知っている。そしてそれを実行できる頭の良さや野心ももっている。複雑性を縮減する詐欺的手口も熟知しているので、わかりやすい話もできる。そして分かったようなことをハッキリと言うので、マスメディアなどでも重宝される。
なんだかテレビや新聞に登場する有名人って、そういう人も紛れ込んでるね、って話でもあったり。ちなみに私も多少パラノが入ってる詐欺師みたいなもんですが、何か。(w)

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3:10追加: パラノイアって倒錯が入ってるから、サディスティックな「享楽」をやることがあったりする。猫を殺したり、ネットの個人掲示板やコメント欄での嫌がらせカキコなんてのもそうだし。倒錯者にはそうしたときの独特で異様なニヤニヤ感がつきまとっていて、文章からそうした表情のキモさが読めてウンザリさせられることがある。