「われわれ」と寛容さ

(あまり脈絡のないMEMOランダム。「寛容」といってもロックやローティは出てきませぬ。)

一人称の「わたし」という代名詞と同じく、「われわれ」という複数形も場所を指し示しているのだけど、その「場」というのはどういうつながりと構成要素から成るのだろうと思うことがある。
このところしばらく「われわれ」とは縁がないので(フリーなのでひきこもりに近い)、「われわれって言うけど、どうせオイラは入れてもらえないんでしょ?」と僻みっぽくなったり。(w)
英語では、「わが社」などというときを除いて、"we"は使いづらい。排他的な印象を与えたり、逆に「私を一緒にしないでよ」と同一性に疑問を投げかけられたりすることがあるのだ。かえって、"You never know what will happen."(何が起こるかわからないよね)などのように、"you"(人一般。キミも私も) を使うほうがしっくりくることが多い。
 
人はふつう、複数の「われわれ」のなかで生きている。それは地域共同体だったり、家族や親族だったり、企業や職場や学校だったり、何かのクラブやグループだったり、あるいは「日本人」だったりする。それらのなかで「われわれ」が保証され、寛容さも付与されるのだろう。
共同体社会での例を見てみると、高知の集落で高齢の独居老人のために自分のところの料理をひと皿分余計に作って提供する、「皿が回る」「皿が走る」と呼ばれる慣わしがあるようだ。

こうした地域では、家の家格という意識が少ないことが知られている。「山持ちだろうが事業主だろうとひとは死に、病気になり、災害だって受ける、しかるゆえにみんな平等だ」という。(「日本の村の相互扶助」富田祥之亮)

以前にあるMLでその話題が出たとき、

「うちの実家は農家で、何軒かの集落の人と一緒に『無人市』をやっています。ところが、そこに朝みんなが品物を並べて引き上げると、一人暮しの自活能力のない男の人が自転車で盗みに来るんです。しかし、その人は自分一人が食べるぶんしか盗まず、そうやっていればそれ以上の悪いことはしないというので、無人市のメンバーはずっと黙認しています。」

と言った人がいた。それも寛容さなのだろう。
 
リドリー・スコットの『ブレード・ランナー』は、寛容さと非寛容さが対照的に交差する映画だ。レプリカントをハンティングするデッカードハリソン・フォード)の非寛容さ。そのデッカードと闘ったロイ(ルトガー・ハウアー)は、高層ビルから落ちる寸前のデッカードを助ける。また、デッカードの仲間のガフは、レプリカントのレイチェルをあえて見逃す(来てたことを折り紙で知らせる)。ロイがデッカードを助けたのも、(プログラムされた)自らの死を前にして、死すべき運命を背負った者として同じであるという認識と同情からだったのではないだろうか。
 
生活や生死にかかわる諸々なことが順繰りに巡ってくる=自分にも起きうる、というのと、自分だけは特別という考え方=自己愛とは、やはり根本的にちがうと思われる。(対称性と非対称性の違いとも言える。) 後者の「自分」は容易に「われわれ」にまで引き延ばされる。そうして選民意識の相互承認を求め、経営者のクラブや知的エリートからフェチなオタクにいたるまで、さまざまな集団がつくられ、裏づけとなるアクチュアルな活動が行われる。
ナショナリズムもそうした「われわれ」への拡張のひとつと考えられる。 「われわれが世界の中心だ!」と叫ぶ行為が、簡単にナショナリスト=「われわれ」であることを裏づけてしまう敷居の低さも影響していると思われる。(行為遂行的発言に似ている。) 例えばサッカーの国際試合などではたぶん誰もが日本チームを応援すると思うし、それはそれでべつにいいのだ。問題はたぶん、ナショナリズムが世界の中心を志向する自己愛の吹き溜まりとなるということにある。誰にでもある自己愛が、孤高を保てるような自尊心に向かうのではなく、肥大化して行き場を失ってしまった果てに、ナショナリズムに出口を見いだしてしまうということだ。
ふつうどんな「われわれ」も、存在に関して先験的な保証などない。行為を通じて評価されるだけなのだが、ナショナリズム(あるいは反コロニアリズムなども)は物語(歴史)に根拠性を求めようとする。そしてそこに、賞賛されるべき自己物語を完成させることができなかった自己愛人間が流れ込む、という機序を想定しているわけである。ナショナリズムの「物語」と中心志向を拠り所にすると、世界の中心で自己愛(実際はその代用物)を叫ぶことができるのだ。(だからうるさい。)
 
「われわれ」意識があるところでは、メンバーにたいしてはある程度寛容なのだろう。べつに「われわれ」の範囲を人類一般にまで拡張すべきなどとは主張しないけれど、どんな「われわれ」も仮構されたフィクションとしての共同性に依拠しているということはおさえておくべきことと思う。言い替えると、必然性も認めるけど偶有性も必ずあるということで、それはどんな「われわれ」も完全に閉じきれない、つまり「叙事詩」のようにはなっていないということでもある。そこに、「われわれ」の外にある者にたいする寛容さを認める根拠もあるのではないだろうか。
少なくとも無関心を装うくらいの寛容さはあったほうが良いと思われる。例えばこの前のイラク人質事件の「自己責任」に関しても。まあ、"Mind your own business." 「人のこととやかく言わんと放っとけや」ということでしょうか。