小学生とblog

「小5女児、飛び降り自殺か 兵庫のマンション」(毎日新聞 2004年6月1日)
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20040601k0000e040059000c.html

子供が大家族や共同体などの環境にいると、母親の代わりを祖母がしたり、また親ほどの重みはないけど近所のおばさんや、あるいは学年やクラスが違っていても近所の子供たちとの付き合いができ、それによって親子という基本関係だけでなく、それを補完するサブの人間関係のなかで育つことができる。サブの人間関係の基本は、「世話をする」とか「面倒をみる」ということにあると思う。それは、仕事の電話やメールなどで「お世話になっております」というのが常套句になっているように、社会で一生ついてまわることでもあったりする。(*)

    * 役人や役所体質の企業人はどうか知らないが、ふつうは誰か/どこかの世話にならないと食べて行けない。学校を卒業して会社などに入社したら、先輩や上司から仕事を教わってゆくわけだけど、それも世話といえる。世話役という役割名称は、もう労務者を抱える建設会社でしか使われなくなっているかもしれないけど、キーパーソンなのだ。まあ、「余計なお世話」という言葉もあるけど。
子供が乳幼児期のときには、親にとっては世話をしたり面倒をみることが主な仕事だ。だが子供が成長して思春前期・思春期になってくると、自我が発達してくるのでその内容が変わらざるをえなくなってくる。そしてそのへんは、たぶんサブの人間関係の人たちのほうがよくわきまえていて、ひとつの人格を持った人間として、それなりに気を使って対応するようになる。だが思うに、一般に親はその対応に遅れる。金銭的なことを中心としてまだ手のかかることは多いが、世話や面倒から次第にコントロールへと傾斜してゆく。そして自分とは異なった一個の人格を持った人間として向き合うというより、理想の良い子イメージを子供に求める。子供が親にたいし理想の親イマーゴを求めるのとは対照的に。いっぽう子供のほうがずっと親に気を使っているので、親の求める良い子を演じてしまったりする。(**) それがもし自分のキャラや志向とあまりかけ離れているようだと、心身のどこかにひずみとして出てくることがあるのだろう。
    ** 学校や教師についても、いろいろあるとは思うけど、一般に似たようなことがいえるのではないだろうか。
理想の子供イメージを無理に演じることは、自己愛を育んで自尊心を持てるようになることとは合致しない。それに加え、子供と母親との二者関係になってしまうと、母親次第でどう転ぶかわからない。親を選べない子供にとって、親の当たり外れは大きかったり。
そういう意味でも、サブの人間関係(第三者)をいくつか持っているのが望ましい。とはいっても、思春前期・思春期の子たちが実社会で積極的にあたらしい人間関係をつくってゆくことはあまり考えられない。でもネット(blog)なら可能なのではないか、ということを考えたわけなのだけど。実際、中学生では日記サイトやってる子も少なからずいたりしてる。書きたいことや聞いて欲しいことを抱えている小学生だってたくさんいるだろうし、思い悩んでいることを書くこと(喋ること)によって解放することは必要だろうと思う。ただ今回の長崎の事件もホームページ上での書き込みトラブルが原因という話もあるように、批判とかお説教とか余計なことを言ったりしない理解ある聞き手が必要だ。
自殺の背景や事情はよくわからないけど、もしその小5の子にもネットなどのオルタナティブな人間関係があったのなら、マンションから飛び降りることなどなかったのではないだろうかと思ったり。それと長崎の事件と合わせて合掌。