妄想メモ

たとえば私にしてもあなたにしても、家族の誰かにしても知り合いにしても、殺人犯にしても有名人にしても、その人間の人格・性格・気質などをかたちづくっている因子や諸条件を拾い上げていったら、あたり前の話だけど、数え切れないくらいあるはずだ。家族構成、家族の性格や考え方、遺伝子、親の職業や収入、住居環境、病気や障害の有無、性別、知能、言語能力、地域環境、風土や自然環境、友だち、学校の先生、時代環境、所属文化、テクノロジー、身の回りに起きる様々な出来事、……という風に。

    そのなかでも親との関係、とくに母親(いない場合はそれに代わる人物)との関係が、人間形成に大きく影響するとされる。
そうした要因によって人間がつくられたものであるという認識(*1)からは、(A1)どんなことであれ、人の考え方や行為にはそれなりの理由があるということ、(A2)人に責任のすべてを負わせることはできない、という考え方が導かれると思われる。(寛容というのは、これに関係しているような気がする。)
    1. このままだと、なんだか社会構築主義みたいだ。
ところがそれは、(B)人間は自分自身の行為に全責任を持たなければならない、という考え方と齟齬をきたすことになる。
その両方を選ぶと、座りの良くないアンビバレンツな状態に置かれてしまう。それで測定しづらい前者の(A)群はネグられて、(B)の責任だけ問われることが多くなる。でもあり方としては、裁判のケースのように倫理や責任が問われ、加えて情状酌量も勘案されるというのが望ましいのではないだろうか。そして落としどころが探されるという。
ふつう誰でも自分に都合が悪くなったら嘘をつくことがあるけど、なかには嘘をつくことが日常化して、べつに嘘をつかなくてもいいようなところでも、すぐバレるような嘘をついてしまう人がいる。そういう人はたいてい、そこに至るまでにそれなりの事情(個人史)があるはずなのだ。とはいっても、嘘をつかれる側にとっては、そんな事情はどうでもいいことかもしれない。さらには、嘘などよりもっと直接の被害を受けるケースでは、加害者の個人的事情などは視野に入ることなどないかもしれない。
そういう「事情」は、加害者と被害者という関係や対立する二者の関係では、あまり考慮されることがない。ふつう二者間での対立やそれによる被害の拡大を食い止めるには、利害の対立軸や枠組みの外にいて、メタなレベルからものを見ることができ、双方の事情を理解できる第三者があいだに入る必要がある。(*2)
    2. たとえばこれを巧妙に利用してるのが、脅し役となだめすかし役(一人二役の場合もある)を使った演出で、容疑者から自白を引き出そうとする刑事や金を脅し取ろうとするヤクザだ。また、子どもが父親から叱られるとき、子どもがあまり傷心しないようにかばう母親の役割もそれに近い。ただし子どもと母親が結託して父vs母子連合の対立になったり、父母vs子どもというのはまずい。後者の場合、祖父母などが介入できたらいいのだけど。
三者や調停者(*3)が外部にいない場合は、けっこう困難さを伴うけど、自己の内につくるしかない。調停者の役割は、その人間を今現在成り立たせている諸条件を拾い出し、もう一方に提示して理解の手助けをすること、そして二者関係がのっぴきならない状態になっているときは、あいだに楔を入れたり、水をかけたり(w)、あるいは土俵を形成している円を消し去って、勝負というゲームじたいを無効にしてしまう、といったことにあるのではないだろうか。ちょっと大袈裟な書き方をしたけど、これは、難儀な人(*4)の対応や、例の長崎の事件(*5)にも関係してる。
    3. 『風の谷のナウシカ』に、「調停者」にして「裁定者」である巨神兵(オーマ)が登場する。強力な破壊力をもった巨神兵と違い、ナウシカは非力だったが、争いの調停者として奔走した。
    4. 他者を振り回す、自己愛・自己中から彼岸に住むパラノな人までいろいろ。
    5. 加害者の女の子は、いろいろ事情があって被害者の子との二者だけの世界に入ってしまい、そこで「否定」されて最後の砦(自分の居所)を失ってしまったという印象を受ける。