自己愛としての愛国心(Reviced 15:30)

INCOGNITO2004-08-09

絵文録ことのは」の松永さんのところで展開中の「愛国心」の話題について、前日のエントリー『人格障害の時代』(岡田尊司)に関連させてちょっと書いてみる。
「絵文録ことのは」―病的愛国心 Diseased Patriotism
「絵文録ことのは」―Gypsy Blood「愛すべき場所は二つ」/松永的愛国心論まとめ編

今の時代、国家へ至る途中にあった共同体への愛や
郷土愛といった部分が希薄化・崩壊 してきている。



なにかというと愛国心を持ち出す人というのは、どういった人たちなのだろうか。いくつか考えてみた。

  • 肥大した自己愛を抱え、その尊大さや共感の欠如などによって愛情が他者へ向かわず、代わりに国に自己愛的同一視する。このとき愛国心は自己愛に他ならない。
  • 人格障害があり「人を本当に愛することの困難さ」を抱えているので、やはり愛情の対象を人ではなく他のもの(国)に求める。
  • 人格の空虚さを抱えていて、愛国心でその空虚を埋めようとする。(埋まるわけがないけど。)

その他、父親を乗り越えられなかった人が強さの誇示のために国家を持ち出す場合とか、国や愛国心超自我代わりにしようと考えてる人のケースなどもありそうだ。
対抗意識というのはわりと自然なことだろうし、スポーツの国際試合で日本の選手やチームを応援するのも自然なことだと思う。(もし大阪に住んでいたら、地縁でタイガース・ファンになるのが自然だというのと同じ意味で。) でも近隣諸国への憎悪をベースにするしか自らを定位できず、そこでの善悪・敵味方というスプリッティングした枠組みでしかものを考えられないとしたら、それこそまさに人格障害的なのだ。
いま企業も終身雇用の廃止によって共同体としての機能をはたせなくなり、地域共同体も次第に失われ、ますます個人主義の時代になっていくなかで、これから人と人とがどう結びつくのかが模索されている。じっさいblogでもそのへんをテーマに取り上げてるものが少なくない。(おそらく松永さんのところもそうなのだと思う。) 今までの社会では、つながりの絆がどちらかというと個人の外にあった。でもこれからは個人それぞれの人格を尊重した結びつきが必要となってくるのではないだろうか。人権とか日本人といった言葉で人間をひと括りにするのではなく、個々の人格を見るということである。
でも、肥大化した自己愛や人格障害やパラノイドの人は、気の毒なことに他者の人格を認知するということが根本的にできないので(自己にないものを他人に見つけられるはずがないので)、カテゴリー(類や種)で考えるしかないのだ。*1 相も変わらず、サヨ、反日、中国人は…、韓国人は……、といった具合に。*2
 

*1:物事を類で把握しようとする傾向は、精神分裂病患者の特徴ともされる。

*2:左右のイデオロギー対立というのは、重要な問題の目くらましの役割も担ってきている。じっさい例えば自民・社会の55年(?)体制というのもイデオロギーの衝突であったけれど、基本はA面(自民)とB面(社会)でのハイアラーキー組織・利権の温存共犯関係でもあったのだ。そうやって役所や官僚は膨大なリソースを食い潰してきたし、いまも小泉内閣は「構造改革」なんてまともにやってない。