因果論

何か物事が起きたとき、人は因果関係を単純にして理解しようとする傾向がある。原因一つで即結果が生じたり、あるいは介在する条件(縁)をひとつくらいにして、すぐ結果がもたらされたことにするのだ。ふつうはそれを逆に辿って、これこれの原因(〜のせい)でこういう結果が起きたのだ、という風に解釈されることになる。
でも実際は、それでおよそ言い当てられることもあれば、そう単純な話では済まないことも多い。というのは、ある原因からある結果が生じるまでには、さまざまな要因(縁)が介在していることが多いからだ。
それともうひとつ、原因−結果関係は必然を想定しているけど、必ず偶然の入り込む余地があるということ。偶然に起きたことは、しばしば合理的な説明を困難にするし、また事象の複雑性を増大させる。この複雑性を縮減する方策としても、誰それのせいでそうなったというように、原因を個人に帰することが行なわれたりするのだ。その方が話が分かりやすいし、あまり物事を考えずに済むからだ。
マスコミというのが、複雑な情報を単純な因果関係に落として、伝わりやすくする機能を持っている。そのとき、明示的・暗黙的に示される「〜のせい」という原因を元に、ときには情に訴えて煽るという手段がとられる。感情的な昂ぶりも単純な因果関係と同様に、複雑性を消し去るのに有効に働く。新聞でいうと朝日から読売・産経にいたるまで、そしてテレビなども含めて、メディアはほとんどそうした部分を持っている。それは政治家の発言についてもそっくり当てはまる。マスメディアや政治家は「煽ってナンボ」でもあるのだ。煽りはしばしば自分たちの正義として語られる。(ということは、正義に反する者や勢力などの悪と対にされて語られor騙られる。) しかもそれは情を伴った一定のパターンに乗って、受け入れやすいかたちで送られてくるので、読者や視聴者や選挙民もそれに同乗して正義を主張することができるようになっている。

情が悪いというのではない。思考に情はあって当然なのだが、それがコンプレックスなど何か鬱屈とした心情となって無意識に沈潜していて、絶えず放出の機会を窺っているというのが問題なのだ。

縁という言葉は、「何かのご縁で」とか「縁としか言いようがない」などと言われたりすることがあるように、偶然に生じた関わりも含まれる。(ただし縁というのは、結果の良否に関わらない中立的な言葉である。)つまり物事の生起には、<因>があってそれにいくつかの<縁>が作用して、そして<果>に結ばれるのだが、多くの場合、文脈として<縁>を読む必要があるということです。

以下、これらに関連したこと。