ボランティア・他者・世界の外(MEMO)

給与をもらう普通の仕事とボランティアの仕事との違いは、どこにあるのだろう? 公共性の有無といっても、公共的なサービスを行なう職種は世の中にいくつもあるわけだし。けっきょくのところ、提供するサービスに対し、お金という対価を求めるか、それとも別なもので受け取るか、という違いしかないのじゃないかと思う。

ニーズに応じたサービスの提供という意味では、どんな仕事でも変わりないということだ。労働の対価をもらうにしろ無償の奉仕にしろ、どちらも需要のないところでは仕事にならない。つまり、ボランティアが何か特別なことであると考えることがおかしいのじゃないだろうかということ。だからボランティアに対して自己満足だとか偽善だとか言っても始まらないし、逆にもしボランティアをする側に何か特別で賞賛されるべきものという意識があったとしたら、それは勘違いでしかない。

以前会社勤めをしていたとき、残業をしてもあえて残業代を請求しなかったことがあったが(自分からやるサービス残業)、それは自己満足と言われたらそうだったかもしれない。でも仕事の進みが遅かったからというときもあったし、仕事に夢中のあまりつい会社に残っていたときもあったが(仕事依存症?)、いずれにしても他人からどうこう言われることではないと思っている。

かっての共同体社会では、上の者が下の者や弱い者の面倒を見るということがあったけれど、ボランティアという言葉の普及によって「面倒を見る」範囲が地縁を越えたということになるのだろう。それにはメディアの発達によって世界との距離が、より近くリアルになってきたことも関係していると思う。
普通の仕事でも、その人のサービス提供能力が発揮できる範囲なら、どこへ行ってどんなことをやるのも自由だ。それはまた国内に留まらない。渡米して日本料理店の板前になることもできるし、東南アジアで商売や商品の買い付けをやるのも自由だ。ニーズがあるなら、仕事やビジネスだけでなく、ボランティアだって行きたいところに行けばいいのだ。

ボランティアの役割として「公共性」があげられることがあるけど、それはサービスの向く先のひとつでしかないと思う。利益を享受できる他者が、直接顔を持った個人である場合と、地域や公共性という枠組みのなかに個々人が隠れている場合がある。後者のような個人という対象を失ったボランティアでは、ときにはあまり充実感が得られないこともありそうだ。例えば、今でもやっているかどうか分からないけど、ある地方都市で高校生による駅前清掃奉仕というのがあった。たぶんその昔交通機関が鉄道しかなく、駅の公共性が高かった時代の名残りだろうけど、その清掃奉仕も前もってテレビ局や新聞社に連絡して取材してもらう。要するに記事やTV映像にしてもらう「美談」作りだ。あるいは主催者が営利でやってるイベントに、学生がボランティアとして参加するというケースがある。要するにタダ働きの労働力だ。サービスが向けられる先に他者がいないそうしたケースのように、はたしてボランティアといえるのかどうか疑問なものもある。

困窮した他者に向けられた労働やモノなどのサービスは、一方的な贈与ではなく、かといって交換関係でもなく、いってみれば交感関係(コミュニオン)なのだ。でも金銭や労力などの負担は提供する側の持ち出しになるので、見かけ上はほとんど贈与に近いし、それにボランティアは経済的・時間的に余裕のある人でないとなかなかできない。そこが特権的な印象を与えかねないので、ボランティアにたいする嫉妬のような感情が生れる素地があるのではないだろうか。

事件・事故などのニュースに触れ、そうした出来事は自分にだけは起きないと考えるのは、自己愛(そのなかでも自益的認知)に由来するとされる。自分だけは特別だという都合のいい考えだ。自己愛は自尊心を育んだり他者への愛へのベースにもなるものなので、人間にとって必要なものとされるが、それが肥大して自己中心的になり、他者への同情や共感を示さないのが問題とされる。自己愛というのは言ってみれば「かけがいのない私」をどう確立してゆくのかという問題ともいえる。それには他者からの承認や評価が必要となる。そして賞賛されるべき「かけがいのない私」を求めて、なかには自己顕示を剥き出しにして頑張るという人も現れてくる。もちろんそれが満足させられることは少ないので、絶えず妬みや鬱憤として抱え込まざるを得なくなる。たまたま事件や事故に遭遇してメディアに登場し脚光を浴びることになった者にたいする非難には、そういう妬みもあるのではないだろうか。イラクで起きた人質事件の三人のうちボランティア女性に向けられた叩きには、享楽の対象とされたこと以外に、そうしたものに由来する妬みや、自らの自己顕示欲の心理的な投影もあったように思える。

阪神淡路大震災のとき、ボランティアのため神戸に行く若者が、テレビのインタビューで動機を訊かれ、「自分探しのため」と答えていたのが印象深い。自己やアイデンティティというのは他者との関係でしか定位できない。「かけがいのない私」というのは、「かけがいのない貴方」という他者の言葉の裏打ちが必要になり、ボランティアの仕事というのはその役割を果たすこともできる。ボランティアにはこのタイプの人が多いかもしれない。いや、それで充分だと思うし、たとえ自己愛を満たすためにやっている人がいたとしても、それで助かってありがたく思ってる人たちがいるなら、べつにいいんじゃないかという気がする。

災難や困窮のニュースに際し、それを自分にだけは起きないと考えるのが自己愛だとしたら、自分にも起きたことかも知れないと考えるのが、隣人愛へとつながるのかもしれない。ではその「私は貴方でもありうる」という考えは、どこからやってくるのだろうか。

ふつう多くの者が、外の世界からやって来る異貌の者に対し、畏敬と賎視という二つに引き裂かれた感情を抱く。とはいえ必ずしも誰もがアンビバレンツな気持ちになるわけではない。蔑視して無視するという者も多いからだ。かっては共同体社会が、自分たちとは異なる者を受け入れるか排除するかという大枠の選別基準を持っていたと思う。行商人、旅人、旅芸人、乞食、托鉢の僧や行者、身体障害者精神障害者、その他得体の知れない者など、それぞれに対応した基準だ。(共同体社会の内部にも逸脱した者――俗に「ちょっとおかしい」と呼ばれる人たち――がいるけど、それには概ね寛容だったようだ。) それでも、例えば旅の困難な夜や悪天候で一夜の宿を求めて訪れた者を受け入れるかどうかは、その人その家によっても違ってくる。

困窮の者にわれわれの心が揺り動かされるのは、ひとつは、動物などが見せる、傷を負った他の動物へのケアの衝動みたいなものにあると思える。もちろん肉食動物は傷ついた草食動物を捕食の対象としか見ないだろうけど、仲間の傷を舐めあうということはやる。草食動物の場合は種を越えて行なう。そうした行為は哺乳類の本能に近いだろうし、人間も同様に持っているはずだ。

レヴィナスの言う「他者」とは、貧者、寡婦、孤児、異邦人などのことであり、世界の外から到来する者、すべての属性から切り離された者、死の気配を漂わせている者たちでもある。かれらの顔(もちろん視覚化されたイメージとしての顔ではない)がわれわれに応答を要求してくる応答責任や「汝、殺すなかれ」という倫理は、ユダヤ人の大量虐殺を生き残ってしまったレヴィナスが、(ユダヤ教の)宗教倫理を哲学・倫理という普遍性を借りて表現したものと思うけど、それはもともとキリスト教イスラム教など多くの宗教・宗派が共有する倫理でもあるのだろう。

「他者」のやって来る世界の外というのは、実は世界の中心なのだけれど、そこはほんらいトーラス(中空)になっているので、目に見えたり直接アクセスできる場所ではなく、そこを通して遍く広がっている無限性をもった超越的な空間、つまり神や仏やそれらになった死者たちのいる世界なのだ。そこではすべてみな属性や差異などを持たない「われわれ」である。
日本の仏教でも、法然親鸞の念仏浄土系の宗派が似たような考え方をしている。親鸞の言葉に「りょうし・あき人、さまざまのものは、みな、石・瓦・つぶてのごとくなる我らなり」というのがあり、さらに、石・瓦・礫のかけらのような我らでも仏の願いによって黄金へと変わってゆくことができると続く。猟師(漁師)や商人なども含め当時は下賎とされた者たちも高僧である親鸞じしんも、みな等しく彼方の世界に連なる石ころのような同朋だということだ。

話を戻すと、ボランティアだからといってべつに賛美する必要などないと思うけど、貶められる筋合いなどはもっとない。自己中心的で自己や自益にしか関心を持たない人間は、視点や価値基準が内にしかないので、原理的には世界の外からやってくる者の姿は見えない。自己愛を満足させる賎視の対象とはなるだけだ。ボランティアに関わる人間は、動機はどうであれ少なくとも姿は見えてるといえる。というか、なかには世界の外に近いところにいる人もいるのではないだろうか。イラク人質事件の三人のうち、とくに高遠さんという女性がもしかしてそうなのではないかという気がするのだけど。

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社会はこれから……、共同体を再構築して新しい倫理観で、というわけにはゆかないだろうし、また宗教でベタにというのもとくにオウム真理教以来ウケないだろうし……、とりあえず『思想 倫理学自然主義』5月号を読んで勉強してみよう。