「自由には必ず責任伴う」という駄文の責任は?

もう「自己責任」についてはいろいろ書いたし、法律をやられてる"swan_slabの雑記" さんのところで、法の視点から「責任」の範囲や妥当性について仔細に検討されているので、もう終わりと考えていた。
あと関連して "yeuxquiの日記"さんのところに、

・・・天竜川の中州に車が何台も取り残されたらしい。でもだれも自己責任だとはいわない。くだらない事件だから? そもそも事件の質が違う? まあそうだろう。けれどももっと別の理由があって、それはたぶん、某スーパーの事件にも、天竜川にも「サヨク」も「アサダアキラ」も絡んでいないからだ。

と端的に本質をついた文もあったり。
ところが "ヒラ日記"さんのところを見たら、山形浩生朝日新聞に書いた文章のことが載っていた。
「自由には必ず責任伴う」
http://www.be.asahi.com/20040515/W12/0025.html

どうも山形浩生の意図とポジションは、政治性とは別のところ――要するにパフォーマンスにあるようなので、ここで書いてきたことの繰り返しにもなるけど、まとめとして感想を少し書いてみる。

 
1.「自己責任」という言葉が生れた背景について
まず、そもそもイラクの抵抗組織と日本政府とではシステムが違うんだから、どちらかが一方的に政治的要求をするなどというのは話にならない、ということが前提としてある。戦時下のイラクの抵抗組織は日本人の人質をとって、日本の政治システムに無理やり穴を空けようとしたが、でもそれでどうにかなるというものではない。断られておしまいになるだけだ。国家には国民を保護する義務があるといっても、次元の異なるそういう理不尽な要求には応えてまで、それを遂行する義務はない。*1 そして家族や関係者以外の国民としても、可哀想だとか馬鹿だとか言いながら、当事者に多なり少なりの望みを託しながら、遠くの出来事として推移を傍観するしかない。
ところが日本国内で家族や左翼市民勢力が、要求そのままの「三人を見殺しにするか、それとも政治的要求を飲むか」と二者択一を迫る政治活動を行なった。それと人質のうちの二人の左っぽさもあって、問題があっという間に、自衛隊派兵の現政権を支持する勢力とそれに反対する左翼市民勢力という、国内政治の土俵に移し替えられてしまった。そのほうが分かりやすいし、また遠くにいて所在も実態も不明な誘拐グループと違って、不満をぶつける対象も見えてくる。そうなると左右の煽り合戦になり、紛糾するのは当然だ。そうしたなかで人質になった三人は、国内の政治的対立の外にいるにもかかわらず、敵味方に色分けされることになってしまった。ほんとうは悪いのは誘拐グループなのだけど、そのことに目を瞑る代償として、人質の三人もしくは政府が悪者にされることになる。そしてけっきょく悪者の座には、マスコミの煽りと家族らのマイナスの貢献もあって、人質の三人が引っぱり上げられることになった。
「自業自得」や「自己責任」という言葉は、そうした文脈で、人質の穴あけ道具としての無効性を主張し、悪いのは彼ら三人だということを主張するために、きわめて政治的な意味合いで持ち出された言葉なのだ。

 
2.責任の範囲
これも既出なのだけど、swan_slabさんの『政府が脅迫される可能性の予見』
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20040417#p1
で、予見可能性について次の二つが挙げられている。

 ・ひとつは、当事者本人に対する生命身体への危険aの予見(A)。
 ・もうひとつは、政府の政策決定の混乱を惹起する危険bの予見(B)。

もしB(b)を予見していてなおかつイラクに入ったなら、当然責任を問われることになる。ところが当時は、外国人を誘拐して政府に要求を突きつけられるという事件はひとつも起きていなかった。
おそらくA(a)はある程度予見し、その覚悟もあっただろうと思われる。それと判断の材料は危険情報だけでない。とくに既に現地で活動していたボランティアの女性には、日本人がイラクでは好意的に見られているという、経験から来る知識があったと思われる。
で、山形浩生がなにを根拠に責任と言ってるかというと、「今回の場合、責任ってのは十分な情報収集と装備と安全態勢確保、できれば保険でしょう。」ということのようだ。
装備や安全態勢確保って何よ? 防弾チョッキと重武装に装甲車? それに、十分な情報収集をやれば、ファルージャ近辺に日本人を誘拐して人質にしようというグループが待ち受けていることが分かったとでもいうのだろうか。そういう新規な高レベルの情報は、実際に秘密裏にファルージャ辺りに潜入してみるとか、あるいは外務省やどこかの情報機関から流されないかぎり知りえないだろうに。
だから山形は、できない注文をあと出ししておいて、それをやっていなかったから責任があると、無理で無責任なことを言っているだけなのだ。

 
3.その他「責任」に関係するのも
ボランティアやNGOに対する好き嫌いや賞賛や蔑視、あるいは善悪といった恣意的・感情的な評価は、「責任」の有無の判断には直接関係がない。それはビジネスだろうが公務だろうが記者の取材活動だろうが同じだ。
ただし、東浩紀氏がhirokiazuma.comで、

そもそも、今回の人質事件をめぐる世論は、いささか常軌を逸していると思います。
http://d.hatena.ne.jp/hazuma/comment?date=20040420#c
にも短く書きましたが、僕は、単純に、日本という国家総体は、日本人ひとりひとりが国家に頼まれたわけでもなく勝手に行ったことで利益を得ていることも多いのだから(たとえばアニメ産業とか)、逆に、国民が頼まれもしないで勝手に行ったことで多少の損をこうむっても甘受すべきだと考えます。NGOの支援なんて賭けみたいなもんで、彼らの支援がイラク人の対日感情をぐっと好転させた可能性もあったわけだから、失敗したからといって責めるのは酷なんじゃないでしょうか。国家の基本的なスタンスが、「俺たちは警告したよ、あとは知らないよ、自己責任でやれよ」というのであれば、民間の保険会社と変わらなくなってしまうと思います。
http://www.hirokiazuma.com/archives/2004_04.html 2004年04月20日

と書かれていたように、利益的な価値判断はフェアに考慮すべきと思われる。

 
4.結論
要するに山形浩生は、責任があると主張してもその範囲を明確にしているわけではないし、根拠すら希薄なのだ。肝心なその点を曖昧にしておいて、コストがかかったことをことさら取り上げ、プールしたリソースを大量に消費したことや、それを想定して担保を入れてなかったことを非難してるわけだ。そして「自由や権利には必ず責任がついてまわるんだから。」とか、脈絡のない分かったようなウンチクをタレてるだけなのだ。
おまけに「自己責任」に疑問を投げかける意見を、あたかも「かれらの活動が立派だから非難するな」と言ってるかのように曲げるし、「NGOだから大目に、と主張」してるかのようにスリ替えるしで、もう文章からは騙しのレトリックしか読み取れない。それに「自由を否定しかねない議論だとわかってるの?」とか、小学生相手にエラそうにお説教タレてるような文体もキモい。
ただし「今井氏の目的」の山師っぽい胡散臭さについての指摘は、そのとおりかもしれない。なんせ山形浩生と同じ人種に見えるし。それと他のジャーナリストたちのことを「功名狙いにしか思えない」というのも含め、けっきょくは「自己投影」なんだな。

まあ、山形浩生がなにを意図してるのか分かるけど。NGOやボランティア周囲にはけっこうナイーブな人たちが多いから、叩きやすいのだろう。ただし左右の政治的枠組みではない、別の立場から批判するというのがミソ。(政治的志向で精髄反射しないところが、彼の利口なところでもあるけど。) そこで持ち出してきたのが、「自由−責任」というメッキだ。それも薄すぎて、剥げる以前に地(魂胆)が透けて見えるけど。そして同じくナイーブな山形ファンに向けて、分かったような顔してご高説をタレて、エエ格好して見せたいということがミエミエ。
そういうのが彼のいつもの手口なんだろうけど、でも今回の「自己責任」批判の批判については、想定してる対象層を間違えてると思うけどね。

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で、朝日もちゃんと人を見て選べと言いたい。山形浩生みたいなハッタリで成り上がったようなタレント有名人なんかより、ずっと鋭く誠実でおもしろいことを言う人が世の中にはけっこういるんだから。
ていうか、彼はもちろんハズしてばかりいるわけではないので、どのくらいハッタリ効かせてるか楽しみながら読むというのが、正しい山形浩生の読み方なのかもしれない。

 
"ヒラ日記"さん:id:hira137:20040517
"yeuxquiの日記"さん:id:yeuxqui:20040517

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*1:参照:id:swan_slab:20040502#1083598404