『ユリイカ *鬱』5月号

とても参考になった。
鬱病の社会的な側面としては、精神科医療の占める位置の拡大、症状の変化、診断分類の改変、抗鬱薬など薬剤の進歩や、不安や鬱に対する受け皿を文化の側が用意できなくなったことの影響など。  *このへんは swan_slabさんの「新しいうつ病論」関係も参照。

個人の病いとしては……、簡単にはまとめられないけど、大きなポイントは以下。
鬱病者は対人関係の秩序を維持するために他者へ配慮し、自己への配慮を忘れる。そして依然として閉ざされた自己のうちにあり続ける。

ここでフーコーが考えている自己への配慮とは、生の美学化といったものではない。それはかっていかなる時点でも自分が経験したことのない自己へと変化していく生の技法のことである。自己への配慮とは私たちの文脈から言うならば、自己の経験の回路を絶えず新たにするように試みることである。
 ―― 十川幸司『自己への配慮』

変わったら、差分として自分も見えてくる。

 
スガ秀美「『鬱』とナショナリズム」にも、ちょっとした行きがかりがあるので、書いてみる。
 参考:スガ秀実 『21世紀の問題を考える』 
 http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/text/21c-suga.htm

このスガ氏の論考には、文化左翼(カルスタ・ポスコロ)批判がかなり入っている。それとやはり「鬱」とナショナリズムの結びつきについては、仮説としているだけで、きちんと検証してるとは思えない。こういうのが論になるのだろうかという気がする。
たしかにユリイカの同じ号の「憂うつはもう機能しないのか」(鈴木國文)に、不安やう鬱に対する心理的防衛機制として、ファンタジーとともにイデオロギーがあげられていた。とすると鬱がナショナリストになる可能性もあるのだ。ただそのベクトルは、左右どちらに向くかわからない。左翼になる可能性もあるわけだ。明治の人たちがもし鬱からナショナリストになったとしたら、それは左翼という選択肢がなかったからといえるかもしれない。ところがスガ氏は、戦後の左翼から文化左翼ネオリベラリズム、そして2ちゃんにいたるまで、なんでも鬱の分類棚に放り込んでナショナリストにしてしまってるみたいだ。そして自分は68年の旗を掲げているから、ナショナリストではなく真の左翼なのだということなのだろうか。尚、鬱々とした文化左翼批判を書いているスガ氏自身が、ナショナリストになることを免れているかどうかは知らない。

けっきょく文化左翼もスガ秀美な左翼も、どちらも自分たちのテリトリー(飯のタネ)を作って、それでお互い陣地に立てこもったり攻撃しかけたりして飯を食ってるのではないかと思ったり。

以前、ある啓蒙主義者のサイト(「成城トラカレ」)のコメント欄に訳あって書き込みをしたら、そこの主からスガ秀実の講演記録(上のURLのサイト)を読んでみたらと言われた。それで読んで思ったことを書いたら、誤読だとかいい加減だとか言われた。(w) そして本人なのか取巻きのヨイショなのか知らないけど、スガ氏の論考のことを、「(「鬱」とナショナリズムが)現在にいたるまで持続している例を指摘する実践は、少なくとも優れた文芸批評の実践であり、単にいい加減としりぞけることはできないアクチュアリティを持っていると思います。」とか書いてた。なんだか「実践」だとか「アクチュアリティ」だとか、言葉が薄っぺらいという感じ。情宣や仲間内の褒め合いなんてそんなものかもしれないけど。
まあ、そういう経緯もあって読んでみたわけです。