トールキン『妖精物語の国へ』(ちくま文庫)

この本のなかでトールキンは、妖精物語(フェアリー・テイル)にたいする世間一般の誤解にたいし異議を唱え、物語形式(ジャンル)としての妖精物語の確立を訴える。前者の世間の誤解については、例えば妖精というと小さいというイメージが想い起こされるが、概して人間のほうが小さいということ、また妖精は超自然的存在のように見られるが実は自然の側にいて、人間が自然の埒外にいるのだということなどが指摘される。さらに後者のジャンルについては、「何でないか」ということで定義される。意図的に子供向けに(大人の勝手で子供像を捏造して)書かれた話ではなく、旅をすることはあっても旅物語ではないし、また夢物語や動物寓話でもないといったことなどである。

ファンタジーは基本的には、第一世界(現実世界)にたいし第二世界を誘惑(魔法)によって<準創造(subcreation)>するものであるとされる。そしてトールキンにとってそれは文学に他ならず、創造された物語世界への導きとしてとくに形容詞の働きを重視する。(例えば「緑の太陽」という言葉が喚起させるものなど。) つまり妖精物語は、文字で書かれた文学固有の表現ジャンルとされるのだ。したがって演劇という手段によるファンタジー表現の困難さも指摘される。(映画については書かれていない。)

このオックスフォードの言語学・英文学者の物語を、(時代は違うが)同じ大学の数学(論理学)教師ルイス・キャロルの『アリス』のそれと比較すると、それぞれの学問領域という背景が影響しているようでおもしろい。ふたりの物語は対極にあるといってもいいのだ。(トールキンは『アリス』の物語をファンタジーとは見ていない。) 例えばトールキンの物語には「願い」があって、「アリス」にはそれがない。トールキンにあってその願いは、読者のものでもあり、また主人公たちのものでもあり、それらは<幸福な結末への慰み(ハッピー・エンディング)>へと結ばれてゆく。時間はその大団円に向かって怒涛のように流れ、その渦の中で日常的な倦怠の時間感覚を超越する。

あのような物語(グリム童話の「白槙(びゃくしん)の木」のこと)は異次元の<時>への扉を開く。その扉を通ると、ほんの一瞬だがわたしたちはこの現実世界の時間の外、おそらく<時>そのものの外に立っているのだ。

 
一方の『アリス』では、ストーリーは夢(悪夢)から覚めて終わる。「論理」の世界に時間はない。さらに神も妖精もいない世界だ。登場人物たちには、固有名詞で表される「他にない・かけがいのなさ」といったものはなく、代わりに「白ウサギ」といった<種>の名前、つまり代入可能な変数や記号で呼ばれる。
とはいっても、「物語」であるということは、いやおうなしに時間の世界に入り込むことでもある。しかし『アリス』の物語は、その時間を受け入れることも拒絶し、時間の順序を転倒させたりする。そうしたあらゆる努力と方策によって、ルイス・キャロルのノンセンスは細部に渡って意味を拒絶し通し、そもそもこの世界には意味の根拠性などないのだということを示そうとしているかのようだ。

妖精というのは聖霊のことでもあり、そしてキリスト教が広まる以前にヨーロッパにいた神々やスピリットでもある。神話の世界では有形無形のそうした者たちが、さまざまな活躍をしていた。神話も妖精物語と同じく、準創造であるとトールキンは言う。妖精物語というのは彼にとって、かって生き生きとしていた人間と自然との関わりを取り戻し、世界に意味と希望を与えるという神話の役割を現代において果たそうとするものなのだろう。
そうした点においても、常識的な意味を揺るがすルイス・キャロルのノンセンス文法と、形容詞を駆使して常識的な意味を超えた新しい意味を生み出そうとするトールキンのファンタジー文法との違いが表れているのではないだろうか。あるいは、この世界が実は隙間だらけであり、そこを覗かせてくれるか、それとも実は隙間には妖精たちが住んでいて、けっきょく世界は意味で充満されるということを教えてくれるのかの違いといえるかもしれない。

 
 更新時間とネタがないので、他で書いたのを流用。日記としての意味がないなあ……。