子どもの世界−自他の境界

「犬に3歳児並み言語理解力、飼い主との“会話”裏付け」
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20040611i403.htm

3歳児のころの話なので記憶にはないのだけど、近所にいた野良犬と仲が良かったという話を母親から聞いたことがある。家にもよく連れてきたらしく、その犬と一緒に写っている写真を見ると、小さい私よりも小さい小型犬だった。でもあまり犬に頬ずりしたりするのでよくノミが移り、親は困ったものだと思ったらしい。それで父はその犬を、動物を安楽死させる施設に連れて行ったとのことだった。(そのことはだいぶ大きくなってから母から聞いた。酷い話だ。) それで近所からその犬の姿が見えなくなったので、3歳児の私は「ワンワンいない」と泣きべそをかいていたとか。嗚呼何と可哀想な話でせう。

で、もし犬に3歳児並み言語理解力があるなら、3歳児とはちょうどいい組み合わせなのかもしれないと思ったのだ。
小さい子どもは物事の区分や自他の境界があいまいだ。世界は三次元のデカルト座標ではできていない。世界は生きているもので満ち溢れている。なにせ、動くものはたいてい生きていると思っている。また人形やぬいぐるみなど、生き物のかたちをしたものも生きている。風にざわめく木々も、空の雲も生きている。

    おそらく画家のゴッホは、その感覚をずっと持ち続けていた。糸杉も星も畑の麦も絵のなかではゆらめいて生きている。ゴッホには区別や差別といった感覚がない。おそらく幼児の動物などにたいする感覚も、それとおなじと思う。
だが子どもは小学校の中あたりから、隠喩の世界から次第に事実カテゴリーの世界に移行する。それとともに生き生きとした感覚も失われてゆくが、それは成長のプロセスでもあり、また学校教育など通した身体の社会化とも平行している。知識に価値があるとされてくるので、とくに男子はシッタカ君への道を歩み始める。また自我の発達と自他の分離によって、対象との関係の再編をせまられることになり、とくに女子は友だちとの関係づくりにエネルギーを費やすことになる。
    NHKの「ようこそ先輩」などを見ていると、小学生も高学年になると平均して書いてる詩がおもしろくなくなる。それでも短歌や俳句となると、急に才能を発揮したりするのでおもしろい。
ファンタジーやホラーというのは、疎遠となってしまった世界との生の関係を取り戻すためにつくられたものだ。だが小さい子供は、まんまファンタジーやホラーの世界に生きている。風にざわめく木々はなにかを語りかけているし、犬とジャレているとき子どもは犬になる。