物語と二重螺旋

INCOGNITO2004-06-16

子どもから大人まで物語が好きだ。物語(歴史)抜きには自己を定位できないのかもしれない。ただしよく言われるように、物語には語りえぬものがついてまわる。思うに、それが世界の中心・自己の中心にある未踏の空白部分なのではないだろうか。ひと(あるいは物語の主人公)はそこに向かって、螺旋を描いて疾走を続ける。そしてもしかしてついには中心に到達できることがあるかもしれない。でもそこは王国でも約束の地でもなく、とどまることのできないひとつの転回点なのだ。そこで裏返って新たに生まれ変わるための。そして翻って、こんどは外へと向かって螺旋を描きながら疾走を始める。物語、あるいは生きてゆくというのは、その永続的な反復なのではないだろうか。その疾走はまた、後背部に渦流(カルマン渦)を生じさせる。そうして運動が残した大きな螺旋(渦)と小さな渦の軌跡によって、物語やその他の作品や制作物がかたちづくられ、またそれが生きている痕跡にもなるのではないかと思う。
 

 カルマン渦(→:風・流体の流れ, @:渦, ■:物体・人)
    → →
 ―→■ @ @ →
 ―→■@ @  →
    → →

 iCFD 計算流体力学研究所 (流れの可視化 Two-Dimensional Karman Vortex)

    川の流れにある障害物の後方にできる小さい渦や、高い山に風があって後方にできる乱気流などもカルマン渦。

中心(あるいは外)に向かう運動は、自己の意志や希求だけによってなされるわけではない。じっさいは、物語の設定やシステムや他者とのかかわりなどによって、どういう展開になるかはわからない。例えばカフカの小説では、中心点で(おぞましい)変身をしたところから突如物語が始ったり、囚われの状態から外に出口を求めてゆく途中で倒れたり、あるいは中心に向かおうとしてもなかなか到達できなかったりする。中心部は、迷路になっていたり、なにか強い磁場が働いていることもあるのだ。

*

まあ、隠喩とイメージの遊びのようなものです。