佐世保の小学生殺害事件(1)――母性 v.s. 父性

INCOGNITO2004-07-04


小学生殺害事件と、子ども・思春期の問題について、いくつか書いていこうと思う。

林道義サイトの「寸評」(6月7日)「佐世保小6事件・クラス内秩序=父性の大切さ」に関して、
又吉正治「日本文化の心理学と家族療法」サイト掲示板で又吉氏(AJPFT管理人)がコメントをしてるので、関連部分を引用してみた。
さて問題は、父性の欠如にあるのか、それとも母性の欠如にあるのか?
 (青文字は「寸評」の引用部)

557 父性か母性か? AJPFT管理人 2004/06/08
以下は「父性の復権」などの著書でおなじみの東京女子大学林道義教授の佐世保事件についての寸評です。林さんのHPは更新が早いので、ここに勝手にこぴぺさせていただきました。

ここで考えてみたいのは、事件は父性欠如の故であろうか?ということです。僕には、母性欠如の故としか思えないような気がしてならないのです。皆さんはどうお考えになりますでしょうか。御意見が賜れれば幸いです。特に、女性教師の行動は、母性欠如ではないでしょうか。
 (寸評の引用は省略)

558 Re:父性か母性か? AJPFT管理人 2004/06/08

    >平成16年6月7日
    佐世保小6事件・クラス内秩序=父性の大切さ
    佐世保小6事件について、毎日新聞ニュースに重要な情報が出ていた。
    女児らのクラスは男性教師が担任だった4年生のときはまとまりがあったが、女性教師が担任になった5年生になって急にバラバラになった。学校で菓子を食べたり、授業を無視する。いじめ、担任への暴力も起きた。
    女児の「荒れ」という現象も、そういう環境の中で起きていたのだ。

これは、、、。現在の担任は男性教諭ですよね。何か勘違いをされておられるような気がしますが、女性教諭になると生徒からなめられてしまう、といったことは中学にもなるとよくあるようです。それが小学校の段階でも現れるということでしょうか。

優しい先生だとなめてしまう、怖い先生だとおとなしくしてしまう、という傾向は確かによく見られるし、現場の先生方のお話もよく聞きます。これは大きくなっても同じ(笑)で、僕も教壇に立つときは「仏」がつくぐらい優しいものでしたが、なめてくる学生もいたものです(^^

しかし、そういう「優しさ」に甘えてしまう子というのは、僕が経験する限りでは、普段は抑圧されている子なのですね。あるいは、甘えたい盛りを甘えられなくで我慢しているというか。ということは、普段から「優しさ」という母性に飢えているのであって、それが得られてないから、学校で擬似的に得られるような場では、わがままを出して甘えてしまう、という現象であると思うのです。これは優れて母性欠如の問題である思うのです。

559 Re:父性か母性か? AJPFT管理人 2004/06/08

    >担任には、勉強を教える以外に重要な仕事がある。それはクラスの中に公正な秩序を保つという任務である。それは「クラスのまとまり」などと表現される。子供たちが弱肉強食の関係にならないように、弱い者がいじめられることのないように、ふざけたり、からかったりが過度になって相手を傷つけないように、心配りが必要である。それをおろそかにすると、容姿や性格で弱点を持っている子供が標的になり、理不尽なことがなされるようになる。それらはたいてい教師の目の届かないところでなされる。
以上のことは矛盾であると思うのです。教師の目の前でいじめが発生したり、ふざけたり、ということをしないよう、それをおろそかにしないようにすることは大切ですが、そのような規制があるからこそ、たいていは、教師の目の届かないところでなされるようになるわけです。いわゆるクラスがよくまとまっているという状態に置いて、そのまとまるための暗黙の了解や指針というものを胡散臭がる子もいるもので、そういった子らが教師の目の届かないところでやるわけです。ある意味、教師の目の前で行うということは、問題を知るということでは、良いことでもあるわけです。それだけ自己主張しているわけですから、教師は発見するのに面倒がないし、ある意味、信頼しているからこそ行われるといっても良いかもしれません。
    >もしクラスの中に公正な秩序があれば、理不尽なことが教師の目の届かないところでなされる確率は少なくなる。理不尽なことは子供同士で批判されるし、教師に訴えることもできる。
公正な秩序というのは、第三者の目からしても妥当であるというものでしょうけど、そういったものが目の前に厳然としてあればあるほど、甘えたくても甘えられない状態に置かれてきた子供には、すね、僻み、恨み、不貞腐れ、自棄糞の心意がありますので、かえって反発するわけです。だからこそ理不尽なことが教師の目の届かないところで行われることになるわけで、それが、防止策として働くというのは、問題のない子供達であるのです。ましてや教師に訴えるというのは、まずできないでしょう。

567 Re:父性か母性か? AJPFT管理人 2004/06/14
続きです。たいしたことはないのですが、完結させておこうと思います(^^;

    毎日新聞の取材に対して、担任の教師は、女児が突然ストレートパーマをかけてきたことがあったが、「ご両親も許していたんだろうから、彼女には何も尋ねなかった」と言った。また「男子をこずく場面は見たが、それほど激しい感じではなかったので、冗談の範囲」と受け止めた。しかし同級生たちが見たところでは、女児は男子を追いかけまわして倒し、踏み付けた。
まあ、これは描写と考えられるので、特にどうこう言うものではない。
    >厳しい言い方になるが、要するにこの担任の女性教師の姿勢は、自由放任、無為無策に近い。自分の中に基準がないので、子供の生活指導にも基準を与えられない。「子供たちが私に見せない部分は当然あるし、それでいいと思っていた。」少なくとも問題意識がなさすぎた。「まとめる」能力がないという問題もありそうである。
このような批判はサルの後知恵であり、ばからしさを覚える。
    >秩序を乱す行為をどの程度チェックするか、その加減は確かに難しい。細かくチェックをしすぎれば、子供たちは委縮したり、影で悪いことをするようになりかねない。いわば教師のリーダーシップが必要だが、それは器量・力量とか人格力というべき部分があり、すぐれて「父性」に関わる部分である。
ここは間違いである。そもそも担任の教師は「男性」であったはずなのに、なぜか「女性」となっており、「父性」の欠如を問題にしようとしている。何か勘違いしていると思われる。それにしても、「父性」にかかわる部分ではない。子供達との間の、信頼や忠誠の念の醸成が不可欠であったというのであれば、賛成である。
    >いつも「差別」だと言われるので、なかなか本当のことを言いにくいが、女性教師の場合には、この「父性」に関わる部分が弱点になりやすい。それをカバーするのが、学年に少なくとも一人は男性教師を置くという処置であり、学校の現場では心得た管理職ならそういう配慮をしているのである。しかしこの場合のように一学年一学級だと、女性教師が担任になったら、父性原理が働かなくなってしまうことがある。校長が指導できるといいのだが、校長まで女性だと、父性不足を補うことが難しくなりがちだ。
これは単なる推論だから、文句をつけるにも及ばない。
    >この場合がそうしたケースなのかどうか断定はできないが、その可能性が高そうである。いま必要なのは、女性教師には何が不足しがちか、男性教師には何が不足しがちかを真摯に考えることではないか。相も変わらず「男も女も能力はまったく同じ」と唱える弊害に、そろそろ気付いてもよい頃であろう。
推論に基づく願望なのだから、どうでも良いであろう。

 
林道義サイト「寸評」では 6月4日と6月6日にもこの事件を取り上げていて、加害者女児は、関係者が責任逃れとして言っているような普通の子ではなく、それゆえ異常な行動を前もって兆候として気づいていれば防げたはずだとしている。
確かに殺人という行為を実行できたのだから普通ではないと思うけど、ただ前兆というのは一般に、事後になって「そういえばあの時」という反省的な視点で初めて得られるものだ。加害者女児のように教室でホラーを読んでいるとか、男子を小突くといったくらいのことは、たぶんほかの学校でも珍しくないことだろうし、そもそも生徒はあまり都合の悪いことを教師に見せるわけがないのだ。そのへんのところを又吉氏は後知恵だと指摘してるのだろう。

また6月6日の「寸評」で、下品な言葉遣いや他人を貶める言葉、そして他者への侮蔑や攻撃などはネット上だけの問題ではないと言っているが、それはそのとおりだと思う。しかし子どもや思春期の子たちがそういう言葉を使って相手を罵ったりするのは、なにも今の時代に限ったことではない。モラルやマナーを教えたらどうにかなるというのは、「命を大切に……」と教えたらそのとおりの結果が得られるというのと同じ発想でしかないように思える。また「攻撃に耐えたり処理したりする能力に欠けていた」とあるが、その能力は重要だと思うけど、大人でもその対処は難しい。
掲示板には机上の空論という言葉が出ていたが、要するに「寸評」にあるような現実から乖離した理屈は、如何ようにも言えるし、また言ったところでなにも始まらないのだ。

「寸評」
これらの道徳的能力は、パソコンの使い方として教えられるものではない。根本的な問題は、親や家族から愛されているという自信を持たせ、そしてそれを基盤にして人間同士の付き合い方のモラルやマナーを教えることである。

「親や家族から愛されているという自信」というのは重要だと思う。とくに母親の比重が大きいだろう。ただしその自信は、モラルやマナーの注入に結びつくというより、相手から攻撃されたときの拠り所として効いてくる。親から愛されていたとしても、他者を馬鹿にしたり攻撃したりするのはやめられない。ただし、多少は他者への無意識のリスペクトにつながるかもしれないけど。
もそも世の中の大人のやることが、三菱のリコール隠しにしても警察の不正経理操作にしても、さらにネットで飛び交う下品な言葉や侮蔑や攻撃にしても、モラルやマナーという点で崩壊しかかっているのに、子どもだけそれを教え込むことができるというのは驕りでしょう。
子どもは傷つくのがイヤだし、他者の承認なしでは生きていくのがつらいから、子どもなりに付き合い方の仁義(モラルやマナー)みたいなものを持っている。「はしご」禁止なんかは、商売上の仁義とも共通点がある。取引先のお客さんはあくまでそこのお客さんなので、勝手に接触してはいけない、などというのがそうだ。

「寸評」では母性が大事と主張してると思ったら、6月7日では新聞記事に載った元担任女性教師のコメントによって、待ってましたとばかりに教師や教育の問題として「父性」を持ち出してくる。でも教師の学級運営能力の有無は、「父性」の問題とは違う。
ただし、林氏が危惧してるように、近年ますます「父」の存在が希薄になってきていることは確かだと思う。それが自己中心的〜自己愛的人間をたくさん生んでいることも、そしてなかには自ら「父」の位置を占めてしまったようなヤバイ人たちがいることも。そしてそういう人たちの考え方が林氏などのそれとけっこう親和性があったり……。

あらためて書くつもりだけど、おそらく加害女児については母性の欠如という問題があると思う。
(後日続けます)

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なんだか表示が重いし、ヘンだ。