母性・父性・野性・聖性・文化 妄想ピン止め

子どもには、母性、父性、野性、聖性の四つの〜性と、文化が必要だと思う。これら五つは、子どもが何かを得ることができる/与えられる「場」として想定している。たとえば「母性」は愛情とやすらぎが得られる場である。また「野性」というのもべつに粗暴とか野蛮という意味ではなく、身体と(広い意味での)自然とが交わる場として考えている。インキュベーター(incubator:孵卵器/保育器。ビジネスでは起業家を育てる仕組みや施設のこと)のような意味合いのものとして想定している。そこで子どもが、必要となる栄養や滋養が得られる場ということだ。(ただし、必ずしもおいしいものとは限らない。なかにはレモンのように酸っぱいものもある。)

    母性と父性と文化というのは何も目新しいものではないし、ピックアップできるキーワードもほかにあると思う。たとえば「知性」というものも含められるかもしれない。ただ、あまり多いと当方の脳ミソの短期記憶バッファーからオーバーフローしそうなので、やめておくことにする。
    たぶんバランスの良さそうな人というのは、それらの栄養のバランスがいいということなのではないかと思う。ただし、どれも過不足なくパーフェクトに得られる人間などはいない。それぞれ栄養の量や質も異なり、生れついたものも合わせて、その人の個性となって表れるのだと思う。
これら五つは、相互に関連しあっていることが多い。
父性は別に父親というわけではなく、「父」のことなのだが、それは社会の規範として子どもに何かを働きかけるものであったりする。母性が子どもを抱きとめる手だとしたら、父性は子どもの肩を抱いて、間違った方向に進まないように導いたり支えたりする手ともいえる。だからその担い手はべつに実際の父親でなくてもよく、母親だったり、祖父母だったり、あるいは近所のおじさん・おばさんやお兄さん・お姉さんだったりもする。学校の先生もそうだ。それらの登場人物は同時に母性的でもあったりするので、父性と母性とが対立的な関係にあるというわけではない。
文化は、ときには父性として現われることもある。たとえば教育というのは、父性と文化が重なる領域にあると思われる。文化はまた高度消費文化というかたちで、子どもたちの行動原理にも浸透する。したがって子どもが消費文化に振り回されるあやうさもある。文化が貧弱だったり偏っていたりすると、子どもが享受できるものも同様に貧弱で偏ってしまうことにもなる。
野性は子どもの生きるエネルギーに関係していて、それとのかかわりは必須なものだ。子どもは外の自然などのなかで遊ぶとき、野生の子となる。そして自然を通して野性を吸収できる。もっとも、雨の日もあるので、べつに家の中で一人遊びしていてもいいし、「物語」を読んで間接的に野生に触れることもできる。思うに「秘密基地」というのも、土地開発から取り残された山や林や河川敷といった場所に子どもたちが見いだした、近代的風景の外部にある野生(原っぱ・現実界)なのかもしれない。
    未開社会やかっての日本の社会では、子どもは一日中ほかの子たちと外の自然のなかで遊び回り、日が暮れてきたら家に帰ってご飯を食べて寝る、という生活をやっていて、そうして少し大きくなったら、リミナリティを経るなりして、大人の世界へと移されて行った。日本の社会では遊んでばかりいたわけではなく、将来に備えて寺子屋で読み書きそろばんを習っていた。でも子どもは、将来大人や国民になる途上の「小さな大人」でも「小国民」でもなく、子どもであることじたい価値のあるものとされていた。
    ところで、エディプスってべつに母子密着の話じゃないと思うけど、母と子の癒着に切断を入れるのは、父親の介入だけでなく、外で遊ぶのが楽しいからというのもあったりして。つまり「父」ではなく「野生」による切断とか。(w)
一般に野性と文化は対立関係にあるが、相互に重なり合う部分もある。たとえば「食」に関しては、野性と文化の両方がかかわってくる。食べるということは、自分の身体に自然界のモノを取り入れることなので、野性に関係してくる。そして料理されたものを作法に則って食べるわけだから、当然文化とも関係している。
聖性は母性と同じく、子ども自ら獲得できるものではない。かっては母性からも父性からも独立して付与されていたものだ。
関連して、「GYROS」という雑誌の2号で、子どもに関する特集をやっている。そこで聖性についても取り上げられている。