『GYROS』#2 ― 特集 子どもの反乱

http://www.bensey.co.jp/gyros/
比較民俗学者の諏訪春雄氏単独編集による雑誌。同じく民俗学大塚英志氏が始めた『新現実』とは雰囲気がだいぶ異なる。(現在は #3「国文学は自己変革ができるのか」が出てます。)
編集後記で諏訪氏は、この特集のコンセプトとして次のようなコメントを記す。

本稿に掲載された多様な論考を読み解いていくための最も重要な鍵は、子どもを大人の未成熟な存在とかんがえるか、子どもを大人とは異なる独自の存在とかんがえるか、である。子どもを大人になりきれない不完全な存在とかんがえる考え方を助成してきた大きな原因は、近代の児童心理学にある。児童心理学は発達心理学の一分野であり、その根本には、未成熟から成熟へむけての発達という考え方がある。この考え方じたいがまちがっているわけではないが、子どもが大人と切りはなされた独自の存在であるという視点をわすれさせてしまったことに問題がある。
民俗社会では、子どもは成人とは異なる特殊な存在とみられ、その扱いには細心の注意がはらわれてきた。この伝統的な子ども観にひとまずたちもどって、そのうえで近代の子ども観の有効性を検証していくこと、それが、本特集のねらいである。(諏訪春雄)

これは同雑誌にあった、菅野盾樹氏の「いじめ――教育の試金石」の主張にも通底している。菅野氏は学校での「いじめ」に関して、<学校>というのが企業や病院などと同じゲゼルシャフトであり、典型的な機能集団として<運営>されているところにも問題の根があるのではないかみる。

もちろん問題は<運営>の社会的現実形態にある。いじめの問題に関するあらゆる議論を、学校は機能集団ではあるが「単なる」機能集団ではないことの確認から始めるべきではなかろうか。子供たちが学び育つ場としての学校――誤解を恐れずにいえば、それはある意味で教会や寺院に似ている――を近代社会の表徴を帯びた「運営」その他の観念の系列にまるごとゆだねてはいけない。<もうひとつの学校>のビジョンを下地のように内包することのない学校観を温存する限り、いじめに関するあらゆる言説は空語に過ぎない。(菅野盾樹



その<もうひとつの学校>というビジョンについては具体的に説明されていないが、「ある意味で教会や寺院に似ている」ということは、おそらく「聖性」にかかわっているのではないかと推測する。
かっての民俗社会で子どもが、「神の子または神と人との中間の存在であった」(諏訪春雄)のは、子どもが神の依代であったり、成人する前に死んでしまう子どもが多かったからとされる。そうして子どもに聖性が付与されるわけだが、今の「脱魔術化」された近代社会でそれを主張するのは難しいかもしれない。では、どういう文脈を考えればいいだろうか。
 
あるロシアの建築家が「子どもというのは異教徒のようなものだ。とんでもないものを崇拝していたりする」と言っていた。それは子どもへの畏敬の念を込めた言葉なのだが、今までの教育や学校というのは、その異教徒を単に啓蒙して改宗させるということだけを目的にしていたように思える。
NHKの「ようこそ先輩」という、各分野の著名人を母校の小学校に招いて、特別授業をやってもらうという番組がある。なかでも見ていておもしろいと思うのは、教えたり考えさせたりする授業ではなく、こどもの才能を巧みに引き出す授業だ。そういうのを見ていると、こどもは編集する能力に非常に卓れていることが分かる。とくにデザイン系と俳句や短歌などがいい。俳句や短歌は創作でもあるけど、素材をもとにした編集でもあるので、リズムにのせてつくりやすいのだ。また、デザインにはセンスやオリジナリティが必要だが、編集の入ってるものは上手につくる。詩は創作能力の有無にかかわるので、世界の見方がそもそも隠喩的な小学校の低学年ならともかく、高学年になるといまいちだ。べつに詩ではなくてもいいものを、詩らしいものにして書いてしまう。オリジナルなものの創作は、誰にでもできるものではないのだ。コミケに出すマンガにしても、オリジナルではなく既存のマンガやキャラクターの編集が多いのも、そういうことなのだ。

    ちなみに、とてもつまらなかったのが、土屋賢二氏の哲学の授業。教室の空気がしら〜っとしていた。番組が終わったあとの子どもへのインタビューで、「(背が)小さいのに頑張ってる」と気を使って慰めのコメントをしていた子がいた。けっきょく土屋賢二氏は笑える哲学者だったのだ。
オリジナルの創作はしんどいけれど、編集による創作なら誰でもできて、誰でも遊べる。とりたててデータベース参照などと言わずとも、それこそポストモダンに特徴的なやり方だ。
思春期に入るあたりで子どもは変わる。それまで世界とはどちらかというと受身でかかわってきたのが、編集という手を使えるようになって、小さくとも世界をつくれるようになるのだ。それは異教徒としての子どもから、編集・創作者としての子どもへの変貌でもある。その他者性と才能のどちらにもたいしても、大人はもっと注目してもよいのではないだろうか。
ところで、民俗社会では子どもが特別な存在で、その扱いには細心の注意がはらわれてきた、というのはどういうことだろうか? おそらくそれは今風にいえば、子どもが傷つきやすい(vulnerable)存在であることに留意することだと思う。(これはなにも子どもにかぎったことではないのかもしれないけど。) そのためには、なるべく否定をしないことが肝要ではないかと思う。「否定」はのちのちかなりネガティブに効いてくるからだ。

また本号には、「ムカつき、キレる子どもを救う『食育』のススメ」(吉本直子)という、子どもと「食」にかんするレポートもある。いま「食育」は官民あげてのキーワードになっているが、ここでは食事や睡眠や排泄などのおよぼす子どもへ影響について語られている。
そのなかに、中学受験の塾講師に「点数がぐんぐん伸びていく子の共通点」について訊ねたときの返答があり、とても興味深かった。

ベテラン講師はしばらく考えてこう答えた。
「そうですね……どうしてそうなのか理由はわからないんですけど、食べるのに意欲的な子が伸びますねえ。いえ、単に食べる量が多いということではなくて、とにかく食にたいして貪欲で好奇心が旺盛っていうか、何でも食べてみよう、という意欲のある子どもは、まず間違いなく伸びていくんです。反対に、食が細くて食べず嫌いをするような子はちょっと……」

そして吉本氏は「食べることに意欲的ということは、生きることに貪欲ということだ。」と結ぶ。やはり食と野性は関連しているようだ。
 
参考:id:sujaku [コンビニ研グルメ班日記]
『学校給食を軸とした、ニッポン食文化変遷史』(2004/06/27〜)
70年代の風景や体験そして戦後史もからめながら、食や学校給食についてシリーズで語られています。(力作!)