岡田尊司『人格障害の時代』(平凡社新書)

著者は人格障害の本質を自己愛障害であるとする。したがってそれは母親(またはその代理)との関係などに由来するものであると同時に、自己愛的な社会や時代によって生み出されたものであるという点も強調される。
人格障害についても、いきなり分類や定義から始めるのではなく、導入として身近なところにもそれが潜在していることが取り上げられる。たとえば子どもがなにか重大な事件を起こすと、すぐキレたり欲望をコントロールできない子どもが非難されるが、そうした風潮のなかにも「人格障害」的な考え方が潜んでいるという。むしろそうした行動をするのは大人のほうであることを、データをあげながら説明する。つまり大人がすでに行動や規範や考え方において幼児化しているということであり、さらには大人じしんが抱える問題を否認してそれを子どもの問題として切り離してしまうという態度じたいが、他ならぬ「人格障害」的なのだという。
そこから第二章の人格障害の特徴や分類へと入っていく。人格障害にいたる多くが、母親からの愛情の欠如やネグレクトが起因となっていることが指摘され、そして各人格障害に共通するいくつかの点が抽出される。そこで導き出されるキーワードが「自己愛」と「妄想・分裂ポジション」だ。

ここまで列挙したいくつかの特徴、つまり、自分への執着、傷つきやすさ、両極端な思考、人を本当に愛することの困難といったものは、幼い自己愛に支配されていることを示している。言葉を換えれば、人格障害は、自己愛の障害だといえるのである。

自己愛がじゅうぶんに育まれず、高次の対象愛に向かうことなく幼い自己愛にとどまってしまい、また自我が未分化のまま「妄想・分裂ポジション」に退行してしまうということだ。
第三章では米国精神医学会のDMS-IV分類による各人格障害について、世界的に名の知れた人物を取り上げながら解説がなされる。これはべつにラベリングのためというのではなく、たとえばビジネスマンといってもいろんなタイプの人がいるのと同じように、人格障害もいろいろなタイプがあるので、それぞれの違いをはっきりさせようということだと思われる。
第四章では代表的な表れ(症例)として、摂食障害やひきこもりや幼児虐待などが取り上げられる。
第五章を「人格障害を手当する」とし、「治療」としなかったのは、人格障害が医師やカウンセラーとの治療関係だけでなく、周囲の者もかかわる(巻き込まれる)からと思われる。とはいえ、その「手当て」の困難さについても語られている。

人格障害の人の空虚は、愛情と関心を巡る空虚であると同時に、現実での無力感と挫折感に伴う空虚でもある。この二重の自己否定から生み出される空虚なのである。

つまり治療だけではなく、現実社会への適応がうまくいかないと片手落ちになってしまうと注意を促す。職業訓練やソーシャルワーキングの重要性である。
第六章と七章では、人格障害と社会や時代とのかかわりについて語られ、現代の自己愛社会や実存主義的な考え方、そして欲望を刺激する資本主義と高度消費社会などが、人格障害の苗床にもなっていると指摘する。またドゥルーズの『アンチ・オイディプス』についても、次のような読み換えと批判がなされている。

ドゥルーズの哲学は「分裂症」を「人格障害」(ことに境界性人格障害)と読み換えることによって、より現代的な意味を帯びる。実際、資本主義が生み出したのは、分裂症ではなく、自己愛の病である人格障害なのである。細切れに断片化された存在とは、人格障害の心理構造に他ならない。ただし、ドゥルーズは、断片化された存在が抱える空虚を見落とすことで、分裂症を欲望の自由な解放として美化する過ちを犯している。それは、実存主義哲学が犯した過ちと同じ線上にある。

最終の第八章は「人格障害から子どもを守る」と題され、人格障害が社会へ浸透することへの対処法が示されている。教育がどうかかわれるかなど、ここの箇所は非常に重要だと思う。とくに子どもは被害者にしかならないからだ。(大人になったら加害者にもなってしまう恐れがある。)
 
人格障害者の極端な二分法的価値観と対照的に、人格障害には両義性がつきまとう。たとえば養育の過程でつくられてきたものという意味では、人格障害者は被害者である。しかし一方で、見捨てられる恐怖や防衛反応から行動を起こして周囲の者をトラブルに巻き込んだりすると、加害者となる。また人格障害者のなかにも、傷つきやすい弱い者がいる一方で、そうした人たちを食い物にする搾取的な人格障害者もいる。可哀想と思えるケースがあると思えば、攻撃性や操作性に非常に腹立たしさをおぼえるケースもあるのだ。2chのメンヘル板などもそれらが錯綜している。
尚、著者は「人格障害」という名称が誤解を生みやすいニュアンスを含んでいることから、「認知行動障害」や「持続性適応障害」といった用語を用いることも検討されるべきとしている。個人的には、人格障害という言葉が相応しくないものと、相応しいものとがあるような気がする。また、傷つきやすさというのはふつう誰もがもっているものだけど、それがとくに顕著なものと、そうでもないレベルのものとがあるように思える。そのほかにも、他者へ配慮するか他者を操作するかといった違いや、人格の空虚さと生命活力の空虚さとの違い、否定が自己に向かうか外に向かうかの違い、被害者意識(しばしば攻撃に転ずる)と弱さの意識の違いといったものもあるのではないかと思う。そのへんの違いが、同情的な気持ちと腹立たしい気持ちとの分かれ目にもなっているような気がする。