リベラリズム・コミュニタリアニズム・アナーキズム(1)
ネオリベラリズムやリバタリアニズムという(市場)原理主義を除いた、リベラリズム、コミュニタリアニズム、そしてアナーキズムの三つのなかで、自分の立ち位置というか、ウロチョロする場所はどこなのかくらいは知っておきたいと前から思っていた。(ただしここでアナーキズムは無政府主義ではなく、原義の反ハイアラーキーという意味と相互扶助を想定してる。またコミュニタリアニズムについても、国家主義や復古主義や利権集団主義といった左右イデオロギー共同体主義も除外して考えています。)
で、疑問に思っていたのは、そもそもそれらは3つは決して排他的なものじゃないんちゃう? ということです。
その辺に関して参考になるサイトがあったので、一部を抜粋してみる。
「大阪大学 米原謙オフィシャルサイト」
書評:菊池理夫『現代のコミュニタリアニズムと「第三の道」』(風行社)
読了していちばん感じたのは、マッキンタイアなどの著書の印象から受けたイメージとは異なり、コミュニタリアンの理論は意外におとなしく常識的だということである。どうやらリバタリアンとコミュニタリアンは相互に中央に収斂しつつあり、どの理論家も「リベラル・コミュニタリアン」か「コミュニタリアン・リベラル」になりつつあるらしい。もしそうなら、もはや「コミュニタリアン」という規定自体が迫力を失い、いずれ近いうちにこの語は死語になってしまうのではないだろうか。
ちなみに、上で挙げられていたテイラーやマッキンタイアというのは、もちろん旧守派のコミュニタリアンとは違います。いまチャールズ・テイラーを読んでいるところだけど、個人的にはリベラルでアナーキーでコミュニタリアなあたりがいいかなとか思ったり。何じゃそれ?ですが、まあ、自己の立場というより、単なる個人的趣味や好みの話ですので。
ちなみに、リバタリアニズム、リベラリズム、コミュニタリアニズムについては、
・乗り物の比喩と様相論理で説明している chez sugi さん
乗り物と様相論理
・MIYADAI.com blog(宮台真司氏)
リバタリアニズム・リベラリズム・コミュニタリアニズムの円環
などが参考になります。
それからべつの疑問として、とくに日本の場合、リベラリズムや「公」の前提になるであろう「個」というものが(良かれ悪しかれ)はっきりとは確立されていないということが問題としてあると思っている。日本では「個」の代わりに機能してきたのが「家」であり、それがすべての基本単位になっている(いた)と思う。したがって「家」というファクターについても考える必要があるのではないだろうか。
例えば(既に言われているかもしれないし、勘違いかもしれないけど)、日本の農村は決して共同体主義とはいえないように思える。農家というのは「家」が事業主の自営業者で、それぞれが所有する田畑の大きさや地の利が異なるという、スタートラインでの不平等さも抱えている。そして個々の家単位では対応できないようなこと――労働力不足や災害への援助など――にたいしては、共同体として対応することになっているけど、それ以外は自己責任で事業経営をやってくれ、ということになるのではないだろうか。そこでは、援助に限らずお祭なども含め、必要とされるときの共同体への参加が公的なものとなる。いってみれば、助けたり助けられたり参加を要請されたりする「縁」の限界が、世界(公)の限界でもあるともいえる。
ここで、以前に書いたのをちょっと引用してみる。(d:id:INCOGNITO:20040530#p1)
共同体社会での例を見てみると、高知の集落で高齢の独居老人のために自分のところの料理をひと皿分余計に作って提供する、「皿が回る」「皿が走る」と呼ばれる慣わしがあるようだ。
こうした地域では、家の家格という意識が少ないことが知られている。「山持ちだろうが事業主だろうとひとは死に、病気になり、災害だって受ける、しかるゆえにみんな平等だ」という。(「日本の村の相互扶助」富田祥之亮)
こうしてみると日本の農村って、基本は「家」主義なのだろうけど、けっこうリベラリズムでコミュニタリアニズムでアナーキズムな側面もあるように思えるのだ。
そしてこうした関係は、都市部でも変わりがあるわけではない。それどころか、都市生活者にとっては「家」がさらに重要な核になっている。指摘は多々なされているけど、つまり都市では会社(職場)も大きな「家」であるということ。そして都市でも農村と同様に「家」は「公」に直結しないが、それは「家」という組織の性質が「我が家さえよければいい」というエゴのうちに閉じようとするものであるからだと思う。
この続きは後日に回して、「家」について少し書いておきたいと思う。