仲良しお友だち対談 <内田樹 × 鈴木昌>

(i feel 2004 夏号 いまもういちどやさしく学ぶ構造主義
題目:オリジナリティや自分らしさへの誘惑を疑うことからはじめよう
 
構造主義に関する部分はそれなりに、として……
おもしろかったところ。

内田 ……私は最近になってバルトの言語論というのは、昔理解したつもりでいたよりも、実はずいぶんと奥深いんじゃないかなと思い始めています。言語のもつ始原的な力、人間を揺り動かすような根源的な力をバルトは直感していたんじゃないかな。『表徴の帝国』で彼は非常に優れた俳句論を展開してますよね。でも、ぜんぜん日本語のできないバルトがどうして俳句のような韻律のある定型詩の美とインパクトをあれほどみごとに体感できたのか。私はそれが不思議なんです。 …… 
…… ベルクソンも同じようなことを書いています。小説を読んでいると「コア」のようなものに触れる瞬間がある。ただ一つの形容詞やただ一つの動詞が「キー」になって、いきなりその小説世界のど真ん中に踏み込んでしまう。その小説の持つ匂いや温度や体感や情感が身体の中に吸い込まれてゆく、そういう経験。これは意味のレベルで起きていることではないし、もちろん音韻やリズムのレベルでもない。だとすればバルトの「エクリチュール」という第三の水準で生起している出来事だと考えるほかない。「エクリチュール」という概念に、ここまでの奥行きがあると私は思ったことがなかったんですけれど、バルトはそこまで見通していたような気がします。
鈴木 きっとそれはクリステヴァが提唱している「深層のテキスト」ですね。彼女の仕事は非常に難解なのですが、内田さんが言われた言語の始原的な部分へ降りていくわけです。私はその深くドロドロした場所に、なぜいろいろな作家が手あかのついた言葉でいろいろな小説を書いているのかという、いわば創作の永遠の謎への答えが潜んでいるのではと興味深く思っています。

そこのあたりになると実証的にも思弁的にも、構造を取り出して記述・説明することが難しくなりそう。言語化しにくいものを言語によって説明するという困難さが伴うので、そのせいか、このあと内田氏は「構造主義はあれでけっこうオカルトなんですよ。」と言葉を引き継ぐ。
俳句や短歌は詠人の感じた世界の表現であると同時に、外に開かれてもいる。それは主語(主体)が消されることによって自我による汚染や私有から自由になった、無我・無為・無垢な、それでいて価値のある贈与・交換物となるからではないだろうか。
 
■ 蛇足
ふざけてつまらなかったので、削除しました。