チャールズ・テイラーとリリカの仮綴じ〆さん

半月ほど前に読んでいたジームズ・ワーチ『心の声―媒介された行為への社会文化的アプローチ 』(福村出版)のなかで、意味を他者との関係のなかで生起するものとするバフチンの意味理論の特徴のひとつとして、「遊離した自己イメージ」とそれに付随する「アトミズム」の否定というのが挙げられていた。*1 それは個人を意味生成の起点とする西欧流の意味理論への批判として出されたもので、そこでの「遊離した自己イメージ」というのはバフチンの言葉ではなく、ワーチはその見解を主にチャールズ・テイラーの著作を参考にしているとのことだった。それを読んで、そういえばたしかリリカさんがテイラーの本を紹介していたと思い、blogを確認してみると、『<ほんもの>という倫理』について、記憶では、付箋をつけるところがたくさんあるといった表現で高く評価していた。また書評へのリンクもあり、それでさらに興味を惹かれたので、買って読んでみることにした。
そしてやっと読了。確かにとてもおもしろい本で、リベラルとかコミュニタリアンとかいった政治的立ち位置の話ではなく、文化・社会・政治・哲学・歴史などを射程に入れた近代論(現代論)がベースになっている。かって人々と世界を確実につなぎとめていたほんものという理想は、脱魔術化された近代においてはすでに失われてしまった。この本はさながら、あらたな[ほんものという理想]を視野に入れながらこれからの社会を構築していく上で重要になってくる、さまざまなポイントを標したロードマップのようだ。そこには、道順や建物の布置や要注意箇所(アトミズムや道具主義、文化や技術にたいする極端に評価の分かれた対立などの「スベリ坂」)などが書き込まれている。
ただ、文章はワンセンテンスがどれも長いので、英語をスラスラ読める人なら原書の方が理解しやすいだろうと思った。構造と階層がはっきりしている英語文と違い、日本語の長文を読むには容量の大きめな短期記憶バッファが必要になる。それでもしかしてリリカさんが読んでいたのは原書かな? などと思っていたのだけど……、blogがなくなってしまい残念。
 
それにしてもリリカさんのことを、ほんとうは17歳女子じゃなく別人だろうとか、キャラをつくってるとか、偉そうだとか、小姑みたいにうるさいこと言ってる人がいたのにはあきれた。なかには嫉妬や妄想を全開にして粘着する人間もいたみたいだし。そうした情報価値ゼロの指向性だけ強いノイズは、フィルターで遮断してしまうのがいいのだけど、それでもうんざりさせられるようなら、やはり遠く離れてしまった方が賢いのかもと思った。雑音がうるさいと仕事や勉強にならないし。*2 (この辺については、次の項目「顔と他者性」で書いてみる。)
「17歳」にまつわる勘違いは、たぶん日米の教育環境の違いによるところが大きい。欧米の高校では哲学の授業があり、日本の高校でのおざなりな「倫理」などと違って、かなり時間数をとってやるので、向こうの高校生の哲学のレベルは日本の大学3年くらいに相当するという。それに日本の「倫理」は「哲学」ではなく「公民」のなかの科目だし、要はうまく暗記すればいいだけで、生徒は考える必要もない。だけど本格的に哲学や思想を学ぶとなると、自分と周囲の社会や世界と向き合いながら論理的に思考していくことが要請される。だから欧米では、論理思考(クリティカル・シンキング)やライティングやディベートといった、思考を論理的に言語化していく手法も習得するようになっている。

    それと日本の中高生の場合は、自分で何かを勉強したいと思っても、その前に受験勉強やクラス内外での人間関係でエネルギーを消耗してしまうという事情もある。とくに女の子の場合は、クラス内でのグループ作りとその維持には神経を使う。
そうしたことでリリカさんのケースも、もともとの資質の高さというのも加わって、日本の大学の4年生から大学院修士くらいのレベルにあるということでしょう。
なお、リリカさんとは対話をしたことがないけど、とても聡明で筋が良さそうというのと同時に、(表現が月並みだけど)非常に感性が豊かという印象だった。チャールズ・テイラーだけでなく、いろいろ勉強になりました。
 
チャールズ・テイラー『<ほんもの>という倫理―近代とその不安』の書評リンク
朝日新聞(鷲田清一)
読売新聞(池内恵)
KenYonehara Offical Homepage(米原謙)

 

*1:1.「遊離した自己イメージ」と、それに付随する「アトミズム」の否定。 2. テクスト機能としての「対話機能」と「単声機能」の双方の認定。 3. テクストに備わる権威性の認定。 4. 意味理論の出発点としての字義的意味の否定。

*2:以前、別の日記サイトで書いていた知り合いの女の子が、高校生だったころにやはりblogヲチスレでいろいろと書き込みをされて、非常に神経がナーバスになっていたことがある。それほどひどいことは書き込まれていなかったけど、けっきょく彼女は日記を閉じ、別の新しい日記を再スタートさせた。