顔と他者性(あるいは抑圧・否定・否認・投影)

ネット上の掲示板などで異様に粘着的・挑発的な攻撃性を露にしている人間がいるけど、そうした攻撃性の由来について考えてみる。
ネット上での攻撃性について、大澤真幸氏は次のように指摘する。

佐世保の事件では、サイバースペースの上でのコミュニケーションやチャットがひとつの引き金にもなっていた、と論じられた。少なくとも、次のことを留意すべきだ。たとえば、インターネットで、ハンドルネームを用いて――つまり「仮面」を被って――激しく攻撃的に振舞う人物にあったとしよう。このとき、われわれは、表面と内面との関係が通常のコミュニケーションとは逆転していることに気づく。ネットの仮想現実に直接に現前しているこの攻撃的な性格こそ、普通の生活で抑圧されているこの人物の内面の真実を直接に分節しているのだ。ここでは、もっとも表面的なことこそ内面的である。つまり、他者の謎、<私>が捉えようとしても決して十全に捉えられないはずの他者の他者たる根拠は、今や、スクリーンにそのまま露出してしまっているのである。

大澤真幸「われわれの社会は『更生』したのか」(『児童心理』2004.9)



    ハンドルよりも自己同一性に気を使う必要のない匿名の場合*1 は、さらに攻撃性な性格を剥き出しにできる。なによりも反復が可能なので、ストーキングや粘着性を持った嫌がらせ攻撃が可能になる。
攻撃的な人物が画面上に露出させてしまうもの、つまり内面に抱えながら抑圧しているものとは、多くの場合、彼我の差の観念が感情化・意識化された劣等感や、満たされない肥大化した自己愛に由来する自己尊大感や嫉妬心などのコンプレックス(複合体)のことでしょう。そして抑圧された内容は、それが意識に上ることができる唯一の手段である否定をとおして表象されたり、あるいは隠匿すべきコンプレックスを攻撃対象に投影することによって、その存在そのものを否認しようとする。そうした心理的事情によって「真の顔」が妄想されたり、たいしたことない・偉そうだといった嫉妬心が生まれることになるのだろう。自分より若いのに優れた人間の存在は、自らの惨めさの感情を刺激する。もちろんそうした劣等感などは当の本人の問題であって、他の者の与り知らないことなのに、それが他人に転嫁されてしまうことになるのだ。
ほんとうは人に出合ったときの評価は、誰でもそれほど違わないと思われる。見て分かる聡明さ/愚鈍さや人間性の有無などは、自己との優劣差も含めて、たぶん誰もがそれほど大きな誤りなく認識する。つまり、無意識のレベルでは、まだ否定はないということです*2。そして大きな誤差なく評価・認識しているからこそ、かつコンプレックスという負のバイアスが絶えずかかってるからこそ、内面で一瞬のうちにその評価がひっくり返されて(否定されて)しまうのだ。認知は一度バイアスのかかった回路を通ると、あとはその都度の価値判断を経なくとも、再帰的に反復されるようになる。知覚や知識によりでき上がったインデックスやカテゴリーは、同じような事例に遭遇したときの認識の省力化と価値判断の迅速さにつながるから、人間の認知につきものではある。だけどカテゴリー化は、劣等感を刺激されることの多い「未知の人との遭遇」での苦痛を低減できる効果ももたらす。逆に言えば、ラベリングやカテゴリー化に過度に熱心な人間というのは、何がしか抑圧や否認に必死だともいえる。とくにカテゴリー把握において、上位のレベルで把握すると個別対応をしなくて済む。つまり個性を持った誰それさんという事例としてのトークンではなく、たとえば日本人とか反日分子といったタイプ(あるいは類)で絡げてラベルを貼ってしまえばいいというわけだ。もっとも、それでも本人が抑圧・否認している内容は、依然としてPC画面に刻印され続けることになるのだろうけど。

その他の否定的態度の心理的背景には、過去において親や周囲から否定され続けてきたという体験とその強迫的反復や、自己愛憤怒といった感情によって引き起こされるものも考えられる。それから、一般に批判というものにも否定が含まれるけど、それが妥当なものかどうかは論説のなかにあるものなので、ケース・バイ・ケースになりそうだ。少なくとも、否定を生む心理的バイアスや何らかの(経済的)意図や欲望が背景にある批判などは、問題外でしょう。
「否定」には別の効果もある。肯定するよりも人の食いつきがいいのだ。よくメディアが、暴露*3 という手段とともにその手を使う。ときにはそれによって公共的な利益がもたらされることもあるけど、高揚感を導くために意図的に行なわれることもある。いわゆる煽りってやつです。また、メディアじたいが批判・否定の対象とされることもしばしばある。メディア批判もまた食いつきがよく、売り込みに利用しやすいというわけだ。そのあたりはライター系のblogも巧い。ライター系サイトはたまたまリンクを辿っていったときにしか見ないけど、否定要素(突っ込みネタ)の見つけ方が巧く、そしてまるで鬼の首を取ったかのように成果を誇示するのも見かける。そのへんの売り込み事情と心理的背景とが、どうも区分しがたいように見受けられるblogもある。
で、結論としては、否定や攻撃はその出所を見よ、ということになるだろうか。もっとも、おそらく多くの人がそこを見ていると思うのだけど。誰かから批判や否定をされた場合でも、それが出てきた根っ子のところを押さえると、何ら動じる必要性のないこともあるということです。それどころか、相手を憐れむべき人間と考えたほうがよいケースもあったりと。
 
ところで上に引用した大澤氏の文章は、神戸の小学生殺害事件の「酒鬼薔薇聖斗」少年A(と佐世保の女児小学生殺害事件)に言及したものだ。神戸の事件については、求心化と遠心化というキーワードを使って次のように説明がなされる。

私は、かねてより、任意の志向作用(心の働き)には、求心作用と遠心作用を伴っていると述べてきた。求心化作用とは、対象を、この身体、この<私>に対するものとして、この<私>に中心化させた相で現象させる作用である。これと同時に、志向作用の準拠となる中心を、他所へと、対象の側へと移転させる働きが作動しており、これを遠心化作用と呼ぶ。顔とは、求心化作用と遠心化作用とが、ともに極大化してたち現われるような対象であるといえる。<私>がそれを見ている(求心化)とき、それも<私>を見ている(遠心化)という直観を伴っているとき、その対象こそが「顔」だからである。人は遠心化作用を通じて、他者もまた見ているということを、他者に魂があることを、つまり他者がまさに他者であることを直観するのだ。(同)

「顔」というのはレヴィナスのそれがそうであったように、ほんらい実際のモノとしての顔のことではない。ここでは、求心作用と遠心作用の交差する場所に立ち現われる現象として想定されていると考えられる。

「他者(の顔)をまじまじと見るならば、それはたちまち不活性なものと感じられるであろう。つまり、他者の見る作用、他者の根拠となる<それ>は、私の<それ>を把握しようとする能動的な営みから逃れ、撤退していく(遠心化していく)という否定的な形式でのみ与えられるのだ。
すると、少年Aがどこで躓いていたかがわかる。彼にとっては、「生命」(に対する実感)の根拠となる「それ」――撤退することで機能する何か――が直接に現前し、到達しうるもののように感じられていたのではないか。

そして少年Aは、被害者の顔の背後にある真の顔を暴露しようとした。
続けて大澤氏は少年が落ちていった原因について、それを母親の育て方だけに求めることはできず、「この家族を取巻く社会の全体の方にあったに違いない」と指摘する。
そして上の最初の引用部の、ほんらい撤退するという形でしか捉えられないはずの他者の他者たる根拠性が、ネットで攻撃的に振舞う者の場合にはその内実がPC画面に露出されてしまっている、ということにつながっている。
撤退するどころか、満たされない承認欲求とルサンチマンや憤怒によるネガティブな感情を露出させて、ひたすら自己語りのモノローグ(つまり「オレを認めろよ」と言ってるようにしか聞こえない)を反復する。そこではもはや、他者性というカードは放棄されてしまっている。
 
バフチンにとって他者性とは、声とそれに対する応答のこととされる。他者性とは人と人とのあいだの架橋可能性のことであり、「他者に魂があるということ」を認め、それぞれの人格を尊厳ある独自のものとして扱うということなのだと思う。つまり、カテゴリーのタイプではなくトークンとして見るということであり、何よりそれぞれの声を聴くということでもある。
一方、類やタイプのレベルで思考しようとする人たちも、やはり人とのつながりを求める。ただし先に述べたとおり劣等コンプレックスを意識しているので、それを刺激される恐れのある「個別的なあるがままの価値判断」は避けられる。また、人それぞれの人格を尊重して見ることもあまりしない。(だから類やタイプ志向になる。) そうした事情により、彼らはカテゴリーのクラスのメンバーとして、他メンバーとつながろうとする。価値判断はクラスの属性に従うことになる。このやり方はネットの掲示板との相性が良く、たとえば2chでの右巻きな人たちの行動様式にも現われている。いってみれば2chの板やスレに集うメンバーシップ制だ。そこはメンバーだけの閉じた世界であり、同質性だけが求められるので他者性というのはなくてもよく、したがって排他性も顕著になる。そしてそれが極端に突出すると、自ら他者性を放棄して、他者の他者たる根拠性をスクリーンに露出させてしまうことにもなるのではないだろうか。
ダイアローグ型とメンバーシップ型とでも名づけられるこの二種類のつながり方の大きな違いは、やはり声と他者性の存在にあるといえそうだ。
 

*1:まあ、私もハンドルがINCOGNITO="匿名" だけど。

*2:フロイド「否定」(『フロイド自我論集』ちくま学芸文庫

*3:暴露はほんらい公共の利益になることに対してなされるべきもので、たとえば、何も後ろめたいものがない私人のプライバシーを暴くというというのは、モラルとしてやってはいけないことだ。