中国でのサッカー・ブーイング

何日か前のローカルFMで、韓国通のDJがブーイングに関する韓国の新聞記事を紹介してた。それによると、韓国チームの試合でも国家斉唱のときからブーイングが激しかったらしい。その理由として、日本と韓国のチームは中国よりも強いので、敵愾心を燃やしてるのだと説明していた。
要するに政治的な反日反韓というより、それも混入した強いチームへの反感(反日本チーム・反韓国チーム)と、「日本や韓国は負けろ〜! そしたら我らがチームにも優勝のチャンスが…」っていうよくある話で、国歌のときまでブーイングする中国のサッカーファン(に限ったことでもないみたいだけど)が未熟でお行儀が悪いってだけの話なのに、マスコミまで反日とか言い出してなに盛り上がってんだか。
(行儀の悪いサポーターやフーリガンというのは、試合に便乗してうっぷん晴らしをやる集団であって、べつに政治志向集団ではないということ。)
 
で、一般にマスコミもしばしばご都合主義で煽りをやって人格障害を増長してるね、って話。

岡田尊司『人格障害の時代』(平凡社新書)

著者は人格障害の本質を自己愛障害であるとする。したがってそれは母親(またはその代理)との関係などに由来するものであると同時に、自己愛的な社会や時代によって生み出されたものであるという点も強調される。
人格障害についても、いきなり分類や定義から始めるのではなく、導入として身近なところにもそれが潜在していることが取り上げられる。たとえば子どもがなにか重大な事件を起こすと、すぐキレたり欲望をコントロールできない子どもが非難されるが、そうした風潮のなかにも「人格障害」的な考え方が潜んでいるという。むしろそうした行動をするのは大人のほうであることを、データをあげながら説明する。つまり大人がすでに行動や規範や考え方において幼児化しているということであり、さらには大人じしんが抱える問題を否認してそれを子どもの問題として切り離してしまうという態度じたいが、他ならぬ「人格障害」的なのだという。
そこから第二章の人格障害の特徴や分類へと入っていく。人格障害にいたる多くが、母親からの愛情の欠如やネグレクトが起因となっていることが指摘され、そして各人格障害に共通するいくつかの点が抽出される。そこで導き出されるキーワードが「自己愛」と「妄想・分裂ポジション」だ。

ここまで列挙したいくつかの特徴、つまり、自分への執着、傷つきやすさ、両極端な思考、人を本当に愛することの困難といったものは、幼い自己愛に支配されていることを示している。言葉を換えれば、人格障害は、自己愛の障害だといえるのである。

自己愛がじゅうぶんに育まれず、高次の対象愛に向かうことなく幼い自己愛にとどまってしまい、また自我が未分化のまま「妄想・分裂ポジション」に退行してしまうということだ。
第三章では米国精神医学会のDMS-IV分類による各人格障害について、世界的に名の知れた人物を取り上げながら解説がなされる。これはべつにラベリングのためというのではなく、たとえばビジネスマンといってもいろんなタイプの人がいるのと同じように、人格障害もいろいろなタイプがあるので、それぞれの違いをはっきりさせようということだと思われる。
第四章では代表的な表れ(症例)として、摂食障害やひきこもりや幼児虐待などが取り上げられる。
第五章を「人格障害を手当する」とし、「治療」としなかったのは、人格障害が医師やカウンセラーとの治療関係だけでなく、周囲の者もかかわる(巻き込まれる)からと思われる。とはいえ、その「手当て」の困難さについても語られている。

人格障害の人の空虚は、愛情と関心を巡る空虚であると同時に、現実での無力感と挫折感に伴う空虚でもある。この二重の自己否定から生み出される空虚なのである。

つまり治療だけではなく、現実社会への適応がうまくいかないと片手落ちになってしまうと注意を促す。職業訓練やソーシャルワーキングの重要性である。
第六章と七章では、人格障害と社会や時代とのかかわりについて語られ、現代の自己愛社会や実存主義的な考え方、そして欲望を刺激する資本主義と高度消費社会などが、人格障害の苗床にもなっていると指摘する。またドゥルーズの『アンチ・オイディプス』についても、次のような読み換えと批判がなされている。

ドゥルーズの哲学は「分裂症」を「人格障害」(ことに境界性人格障害)と読み換えることによって、より現代的な意味を帯びる。実際、資本主義が生み出したのは、分裂症ではなく、自己愛の病である人格障害なのである。細切れに断片化された存在とは、人格障害の心理構造に他ならない。ただし、ドゥルーズは、断片化された存在が抱える空虚を見落とすことで、分裂症を欲望の自由な解放として美化する過ちを犯している。それは、実存主義哲学が犯した過ちと同じ線上にある。

最終の第八章は「人格障害から子どもを守る」と題され、人格障害が社会へ浸透することへの対処法が示されている。教育がどうかかわれるかなど、ここの箇所は非常に重要だと思う。とくに子どもは被害者にしかならないからだ。(大人になったら加害者にもなってしまう恐れがある。)
 
人格障害者の極端な二分法的価値観と対照的に、人格障害には両義性がつきまとう。たとえば養育の過程でつくられてきたものという意味では、人格障害者は被害者である。しかし一方で、見捨てられる恐怖や防衛反応から行動を起こして周囲の者をトラブルに巻き込んだりすると、加害者となる。また人格障害者のなかにも、傷つきやすい弱い者がいる一方で、そうした人たちを食い物にする搾取的な人格障害者もいる。可哀想と思えるケースがあると思えば、攻撃性や操作性に非常に腹立たしさをおぼえるケースもあるのだ。2chのメンヘル板などもそれらが錯綜している。
尚、著者は「人格障害」という名称が誤解を生みやすいニュアンスを含んでいることから、「認知行動障害」や「持続性適応障害」といった用語を用いることも検討されるべきとしている。個人的には、人格障害という言葉が相応しくないものと、相応しいものとがあるような気がする。また、傷つきやすさというのはふつう誰もがもっているものだけど、それがとくに顕著なものと、そうでもないレベルのものとがあるように思える。そのほかにも、他者へ配慮するか他者を操作するかといった違いや、人格の空虚さと生命活力の空虚さとの違い、否定が自己に向かうか外に向かうかの違い、被害者意識(しばしば攻撃に転ずる)と弱さの意識の違いといったものもあるのではないかと思う。そのへんの違いが、同情的な気持ちと腹立たしい気持ちとの分かれ目にもなっているような気がする。

 

否定――メモ

フロイド『自我論集』(ちくま文庫)にあった論文「否定」

  • 精神分析において被分析者が「それは〜ではありません」というとき、分析者は「それはまさに〜である」と読む。
  • 論理判断の否定(〜ではない;not)と共通する。
  • 無意識に否定はない。

などなど。もう一、二回読み直す必要がある。
 
ところで、何につけ否定する性向のある人というのは、何につけ否定されてきたことの負債の積み重ねがあって、その債務処理がうまくできずに、他人へ転嫁(投射)しようとしてるのではないだろうか。
否定はこわい。否定は否定を生みやすい。
否定と批判はほんらい違う。でも否定の負債が多いと、それを一緒にしてしまう。つまり否定(負債を軽減)するために批判がなされてしまう、ということはないだろうか。
否定というのは人間や社会を読み解く重要なキーワードになるのではないかと思う。(また大風呂敷かな。詳しくはいずれまた)

デザインな仕事

久しぶりにWebの仕事の話が来たので、地下鉄とバスを乗り継いでお客さんのところに行ってきた。大学の研究室。実は地元からの仕事は、知り合いの会社しかやったことがない。いや、話だけというのは数回あったけど、担当者段階では決まっていたのが上司の横槍で流れてしまったり、煮え切らない話や慇懃無礼な話にこっちから流したりしてた。のんびりしてるわりにけっこう権威主義的な田舎のビジネス・スタンダードに付き合っていくのはしんどい。その知り合いの会社以外の仕事は全部首都圏だった。メールや電話・Fax、宅配便だけでやりとりしていたけど、直接会わないと話が見えないなどということはない。そうやってずっとひきこもりでやってきたせいか、人と会うのがちょっとしんどくなっていた。ほんとうは今回の話も、メールだけでやりとりしたかったのだけど。(おい!)
企業の仕事だと、法人としての企業の顔と担当者個人の顔は違うので、とくに担当者と会わなくても不都合はない。でも個人(研究室)の仕事だと、べつにその人のブランディングをやるわけではなくとも、実際に会ってみることもそれなりに大事かも。
営利でやってる企業からの仕事と違って、大学の研究者からの仕事は金銭的にはあまり期待はできないけど、まあ、いろんな候補のなかから選んでくれたのだし、おもしろそうで公共性もある内容だから、いいアウトプットを出そう。

    あたりまえの話だけど、デザインというのは単に見てくれがいいとか、恰好いいとかいうものだけではないです。学問というのが見えないものを見えるようにするものだとしたら、デザインも概念や技術や機能など見えないものを、形あるものに・意味のあるものに・見えるようにする役割を担っているのだ。(ちょっと大風呂敷だったかな、たいした仕事もしてないのに。それにここのwebLogページだって全くデザインに気を使ってないし……。)
 

女子中学生は集会を開く生き物である

近くに中学校があり、下校時に女生徒たちが分かれ道などで、よく輪になって集会を開いている。二、三人から、多いときで十人を越えるときもあるが、平均六人くらいだろうか。
言葉には交換価値がある。情報だけでなく、言葉それじたいも交換価値があるのだ。交換価値は交感価値でもある。たとえば大阪弁などは交換性が高い。「ひやかし」を許容してるのは、言葉の交換=交感性が高く、それがまた商品−貨幣の交換へとつながることもあるからではないだろうか。
今はスーパーやコンビニなど、べつに話をしなくてもいい環境が多いけど、ほんらいコミュニケーションの量と商品の流通(売買・交換)量は比例していると思う。

冬にスズメがたくさん止まって、ひっきりなしにさえずり合っている街路樹がある。その樹の下を人が通るときは、さえずりをやめるのだけど、彼/彼女たちはいったい何を話しているのやらと思う。ということで、女子中学生とスズメは似てる。男子中学生はカラスかな。

「男はつらいよ」v.s.「少女はつらいよ」――思春期

小学校の高学年くらいから、子どもはそれまでの世界から少しずつ離脱して、思春期という未知のステージへと移ってゆく。男の子はそこから漸進的に大人になってゆくが、女の子の場合は大人の女になることに向き合うという、男子にはないプロセスがひとつ入る。思春期には男子でもけっこう身体周りにコンプレックスを持ったりするが、少女たちの場合はさらにいっそう容姿コンシャスになると思われる。この時期、男の子たちは競う合うため大人ぶって背伸びをしがちだが、少なくとも精神的にはまだ子どもでいられる。だが少女たちは、子どもと大人の女の境界領域にいるといえる。そこはリミナリティでありカオスでもあるので、状態としては遷移的で不安定だ。そこでは、身体が大人の女に変身してゆくことや、女として美的尺度で見られることにたいする不安や戸惑いや嫌悪感を伴う。それでそれらの受容に消極的だったり、なかには否定的な者も現われてくる。ずっと子どもの世界に留まろうとしたり、大人の女の代わりに男の子の世界や性別を越えた精神的世界へ向かったり、あるいはファンタジーなどへ向かう子たちだ。それがまた、永遠の少女性へのあこがれや、「ボーイズ・ラブ」という不思議な発想、あるいは(女である)母親への嫌悪感というかたちで現れるとされる。
さらに少女はこの時期、大人の身体になっていくと同時に、消費文化に浸透された身体を生きることになる。そうして思春期の少女たちは、高度消費社会からもたらされる欲望と内から湧き起こる欲動とによって駆動され、フラジャイルやヴァルネラブル(こわれやすい)であると同時に(なんせ十数年の人生経験があるので)しなやかさももち合わせた、男から見たらよく分からない異教徒的存在となるのだ。ひとによって違うだろうけど、この時期は女の子にとって一生のうちでも最も、楽しさやしんどさや希望や不安の入り混じった複雑な時期であるかもしれない。

    男子にもけっこう共通部分があるけど、個人的体験を強引に一般化してしまうと、概ね男子はアホです。